第5話 傷心の犬
『どうするんだよ。イチャイチャの最中だったら』
矢部の言葉が頭から離れない。県庁で菜の打ち合わせを行っている間もずっと頭に霧がかかっているみたいだった。
「保住さん。体調悪いですか?」
はったとすると、菜花がくりんとした目を瞬かせている。
「いや。別に」
「ならいいですが。なんだか心ここに在らずみたいですね。心配事でもありそうですが……」
「そんなものは……」
「ない」と言い切れない自分に気がついて、なんだか嫌な気持ちになった。保住は姿勢を正す。
「申し訳ない。失礼でした」
「いや。そんな日もありますよ。今日はここまでにしましょうか。早くその心配事が解決するといいですね」
菜花はそう言って柔らかな笑みを見せた。心に余裕がないなんて、初めてのことだ。保住はイライラとした気持ちを抱えながら、県庁を後にした。それから自家用車に乗り込む。
とても残業をする気持ちにもなれない。田口がいないと、ひとりぼっちだ。保住が残業をしている間、田口は自分の仕事があると言って、必ずそばにいてくれる。今まではずっと一人だったから。一人は平気だ。それなのに。
彼との時間が当たり前になりすぎて。当然になりすぎて。彼のいないこの時間が、保住にはつらく感じられるのだ。
保住は神崎のマンションのインターホンを押した。すると、すぐに男性の声が聞こえる。
『神崎です』
10日ぶりの田口の声だ。明るい声色に一瞬で、面白くない気持ちになった。
「保住だ」
『あ! 係長ですか。今開けますね。お待ちください』
間もなく開錠された扉を抜けて、保住はエレベーターに乗り込んだ。田口はエプロン姿で「お疲れ様です」と言った。
少しは参っているのか、と思っていた保住だが。田口ははつらつとした声で話す。保住はますます腹立たしく思った。
「随分と楽しそうだな」
「え! そうでしょうか?」
中に入ると、先日来た時にあったゴミの山は半分以下に軽減していた。
「片付けが大変ですが、もう少しです。――神崎先生、係長です」
田口に声に神崎が振り向く。彼女もまた先日来た時とは様変わり。髪はきちんと一つに束ねていて、顔色も随分といい様子だった。
「あらやだ。かなり進んだけど。なんかこう。いまいちメインテーマが決まらなくてね。ごめんなはいね。大事な職員をお借りしちゃっているのに」
「いえいえ。それは構いません。先生の創作活動が捗るのであれば、いくらでもお貸しするのですが……。田口がなにか失礼なことでもしていないかと見に来たところです」
田口は恥ずかしそうに恐縮している。神崎は笑顔だ。
「銀太ね、すっごくよく働いてくれて。後は、私の誘いに乗ってくれるといいんだけどなー。なかなか堅物じゃない? 係長さんもそう思うでしょう? 女の子遊びに慣れていないウブな子ね」
「先生! だから。おれは……」
「銀太……ね」
保住は目を細めて田口を見た。田口は慌てて両手を振った。
「いえ。そう言うのではないんです。……係長! あの……」
「失礼がないなら結構です。このまま、よろしくお願いいたします」
保住は立ち上がった。この場にいたくなかった。少しでも早く、外の空気が吸いたかった。神崎と田口の間にある妙な雰囲気。気分が悪かった。まるで二日酔いで胸焼けでもしているみたいだ。
「やだ。お茶飲んで行ってよ。せっかく来てくれたのにー。銀太、ほら早くお茶」
「はい!」
保住は「結構です」と大きな声を上げた。
「私にはお構いなく。創作活動を進めてください」
保住はさっさと踵を返すと、ゴミをかき分けて神崎の家を出た。後ろから田口が追いかけてくる。
「係長!」
「楽しくやっているようで安心したぞ。よく励むように」
「そんな棘のある言い方ないですよ。怒っているのですか?」
「特段、怒るようなことでもあるまい」
エレベーターの前で田口に腕を引かれた。あまりの勢いに、保住は体勢を崩しそうになったが、田口に支えられた。
「保住さん!」
名を呼ばれて我に返る。思わず視線を上げると、田口は珍しく怒ったような瞳の色を浮かべていた。
「怒っていますよ。おれ、なにかしましたか? 結構、頑張っているつもりですけど。ご期待に沿えないことでもありましたか?」
「そんなんじゃない」
——そんなことではない。
「ただ——」
——違う。
「曲ができあがらないからだ」
——そうじゃない。
「お前がついていながら」
——そんなことを言いたいわけではないのに。
「もっと先生の創作意欲を高められるように、お前を置いたのだ」
田口は保住を見ているのに、保住は田口が見られなかった。
「さっさと自分の使命を果たせ」
「それは、どういう意味なのですか?」
田口の表情が翳る。
「保住さん」
「田口、仕事の話中だ。名で呼ぶな」
「いいえ。違います。そうではないのでは?」
「なに?」
田口の保住の腕を掴む手に力が入る。
「なにを怒っているのですか。おれがここにいるのがそんなに気に食わないのですか? あなたが指示したのですよ。だから、おれは……」
「だからなんだ。仕事をしろと言っているのだ」
「しています」
「なら、なぜ楽曲が仕上がらない」
「それは……」
——田口。そうじゃない。違うのに。
「もっと本気で先生の接待をしろ」
「保住さん! それって……、本心で言っているのですか?」
「そうだ」
「違うでしょう。そんなことを言う人ではない」
「違う。おれはおれだ」
「保住さん」
「帰る」
ごちゃごちゃだ。
——なんだ。この気持ち。
自分自身がコントロールできない。このままではいけない。保住は田口の手を振り払うと歩き出した。
「保住さん!」
「どうしたの?」
中から神崎が顔を出す。田口がそれに気を取られている隙に、保住はエレベーターにからだを滑り込ませた。
***
「あ~あ。痴話げんか? 銀太の好きな人って係長さんだったんだ」
「な!」
田口は顔を真っ赤にした。
「わかりやすいね」
神崎は笑う。
「係長さんも銀太のこと好きみたいじゃん」
「そんなはずは……」
「そうかな? やきもち焼いちゃって。銀太取られたと思ってんじゃない。可愛いところあるのね。あの人」
「いいえ。あの人に、特定の好きな人はいないみたいです」
「そうかな~……。まあ、いいけど。ふふ、面白いの見ちゃった! あらやだ!! なんだかちょっといいアイデア思い浮かんじゃった!」
神崎はそう叫ぶと、ダッシュで席に戻る。
「やばいやばい! いい音楽下りてきた!」
——それは良かった。それはいいのだが。
田口はしょんぼりとした。自分なりに頑張っていた。神崎の頭を洗ってあげたり、慣れない食事作りをしてみたり。再三の彼女の誘いを断って、田口なりに職務を全うしようと努力していたのに。保住の冷たい視線。
『神崎と関係を持て』
そう聞こえた。
「涙、出そうですよ。保住さん」
田口は目元をごしごしとこすってから大きくため息を吐いた。
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