第10章 側で支えたい

第1話 関係なくありません!



 妙に目が冴えて眠ることのできない夜だった。佐々木に絡まれたこともショックだったが

それよりなにより。保住のことが心配でならなかったのだ。時計の針は朝の七時を回ったばかりだが、こうして自宅にいても落ち着かないのだ。田口は身支度を整えると、さっさと家を後にした。


「はあ……」


 何度目のため息だろうか。頭が思うように働かない。徹夜明けの朝だ。

 

 昨夜。会場から職場に戻った後、荷物の整理をしてそれぞれは帰途に着いた。みんなが一様に口数が少なかった。疲労困憊、というところか。


 保住は澤井に送ってもらうもいうことだったが、職場には姿を現さなかった。そのまま自宅に帰ったということだ。


 気にしても仕方がないことなのに。気にしないではいられない。大友とのこともあるし。なに事もないといいのだが——。


 誰もいないことはわかっていても、「おはようございます」と挨拶をして事務室の扉を開けると、パソコンのキーボードを叩く音が耳を突いた。


 ——こんなに早く……。誰?


「なんだ、早いな。昨日遅かったのだ。こんなに早く出てくることはないぞ」


 そこにいたのは保住だ。彼はパソコンに目を向けたまま、手を軽く上げた。


「係長でしたか。係長こそ。こんな朝早くからお仕事されているのですか」


「昨日、仕事が出来なかったからな。山のようだろう?」


 彼はそう言って自分の隣の書類の山を指差した。保住の声は掠れている。デスクトップに隠れて顔を伺う言葉できないが、体調でも悪いのではないかと思った。


 それもそうだろう。昨日は一日ハードスケジュールだったのだから。田口は荷物を置くと、そっと保住の顔を伺うように首を伸ばした。


 彼はただ無心にキーボードを叩いている。しかし、その顔色は蒼白。まるで死人みたいに見える。


「係長。随分とお疲れのやうですよ。顔色が悪いです。体調が悪いのではないですか」


「構わなくていい」


 彼はぶっきらぼうにそう言い返すと、ふと田口に視線を寄越す。


「昨日は、随分と佐々木女史と親密だったじゃないか。よかったな」


 ——嫌味か。


 言い返そうとして、ふと言葉を止める。大体、彼が機嫌が悪い時や自分に突っかかってくる時は、なにか嫌なことがあった時なのだ、ということを学習していたからだ。


 そう。先日、堂々たる八つ当たりを食らった。あの時は実家のことでイライラしていた気持ちを田口にぶつけてきたのだ。保住はそれを「お前への甘えだ」と言った。だからきっと。こうして八つ当たりする時は、何事かがあった時。


 田口は心配になって、保住のそばに寄った。


「保住さん。なにかあったのですか?」


「なにかってなんだ? なにもない。ある訳がないだろうが」


 彼は訳のわからないことを言う。


 ——おかしい。


 こんな支離滅裂な言葉を述べる男ではない。


「なにかあったのですね? 保住さん」


 保住は田口から視線を逸らすと、「なにもない」と言った。


 田口は話を聞こうとしない彼に、自分と向き合ってもらいたくて、彼の腕を捕まえた。その瞬間。保住のからだが、一瞬、強張った。


 今までにない反応だった。しかも田口は見逃さない。彼のワイシャツの襟元から、見え隠れする別な人間がつけた跡を——。


「大友教育長ですか!?」


「な、なにを——。田口、お前……」


 珍しく視線が泳ぐ。こんなおどおどした保住を知らない。彼の様子からして、「好ましくない事が起きた」と判断する。田口は頭に血が上った。カッとして保住の腕を捕まえる手の力が更に強くなった。


「田口! 痛い。離せ」


「保住さん、一体どうしました? 今日は酷い有様だ」


「酷い? 確かに、酷い有様かも知れないが、お前には関係がなかろう」


「関係ないって、そんなことはありません!」


「放っておいてくれ、頭が痛む」


 保住は心底具合が悪いのか。顔をしかめて、握られていない手でこめかみを抑えた。


「保住さん!」


 頭に血が上り冷静さを欠いているが、保住の様子は瞬時に分析できた。


 寝不足。

 疲労困憊ひろうこんぱい

 そして、誰かとの関係性も。

 グダグダで、切れのない返し。

 虚ろな瞳。

 腫れている目元。


 こんな彼を、放って置けるはずがない。田口は保住のいじっていたデータを保存すると、勝手にパソコンをシャットダウンした。 


「田口……っ」


「こんな姿、他の人に見せられませんから。帰りましょう」


「な、なにを言う……」


 抵抗も力無い。語尾は消えかかりそうだった。田口は彼の鞄を抱えて、保住の腕を引く。強く抵抗されるかとも思ったが、そんな気力もないようだ。ただ保住は、田口になされるがまま。


 田口はそのまま保住を連れて庁舎を後にした。




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