第10話 何故、田口?


 夜のとばりは、良いことも悪いことも隠してくれるものだが。東の空が白白と明るくなれば、現実が目の前に突きつけられる。


 頭が重かった。霞かかったような意識は、どこか不明瞭で、余計に保住の心を苛立たされる。まるで自分の手足ではないみたいに、四肢が重かった。ふと隣の男が起き出す気配に、思考が一気に動き出す。


 ——ここはどこだ?


 ここは。我が家だ。見慣れた我が家である。だがしかし、そこにいる男は、その景色には不似合いな人間だ。薄暗い室内で身支度をしているのは。澤井だ。彼は保住が目を覚ましていることを知っているかのように「帰るぞ」とぶっきらぼうに言った。


「そうですか」と答えようとした声が、掠れてうまく出ない。声を出すことを諦めて、ぼんやりとしていると、じわじわと昨晩の感覚が大波のように押し寄せてくる。


 会場を後にした。澤井は何も言わずに保住の家に上がり込むと、すぐに二人はもつれ合った。まさか澤井と、こんな関係になろうとは。思いもよらなかった。


 澤井は保住を見ていて、見ていなかった。彼が追い求めるは父の姿。そうわかっているのに。辛そうな瞳で自分を抱く澤井を跳ね除けることができなかった。


「やはりお前はお前だった。おれはお前にお前の父の姿を重ねていた。だが。それも今夜、はっきりとした」


 彼は身支度を整えると、ベッドに膝をつく。太く逞しい腕が伸びてきて、保住の前髪に触れた。


「それは良かった……ですね」


 半分は心の声。声にもならない呟きなんて、意味もない。澤井の言葉は理解できなかったし、したくもなかった。


「——すまなかったな。負担をかけさせた」


 ふと澤井の声色が柔らかくなる。保住は顔を上げて彼を見返した。


「あなたから、労いの言葉があるとは思ってもみませんでしたよ」


 瞳を細めると涙が溢れる。悲しいからではない。生理的な涙だった。澤井は保住の頬を指で拭った。


「おれの戯言に付き合わせることになろうとはな」


「……貴方の心は救われたのでしょうか」


「そうだな。救われたのだろうな。これからは、きちんとお前と向き合える気がする」


「今までとは違って——と言うことですね」


「そうだ。しかし今までのお前もお前だからな。お前の接し方は変わらないのだろなうな」


 澤井は珍しく優しい笑みを浮かべてから、保住の額に口付けを落とした。


「今日は休んでも構わないが」


「いえ……昨日の分も仕事が」


「無理はするな。おれの責任だ。片付けておいてやろうか」


「貴方には貸しを作りたくないんです」


「まったく! こんな状況でも減らず口を叩くか。お前というやつは!」


 澤井は大笑いをした。


「女ともいいが。これはこれで一興であった。お前を愛人にでもしてやろうか」


「ご冗談を。これっきりにしてください。今夜のことは父が見せた幻ですよ。真に受けないでいただきたい」


 澤井は保住の言葉に気分を害する様子もなく、部屋を出ていった。一人きりになると、どっと後悔の念が押し寄せてくる。保住は顔に手を当てた。


「——なにをしているのだ。おれは……」


 どうしてか思い出すのは田口のことばかり。澤井が目の前にいるというのに、保住の中は田口のことでいっぱいだった。佐々木に対してはにかんだ笑を見せた田口が憎らしい。これではまるで嫉妬しているみたいだった。


「くそっ。なんで田口なんだ……っ」


 大きくため息を吐く。からだも心も疲れているのに頭の中は妙に冴えている。寝ていることなど到底できそうになかった。


「くそ! からだが痛い!」

 

 そばに落ちている寝具に八つ当たりをしながら、保住は身支度を始めた。






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