第9話 もやもやした不安
「お前、最低だな!」
渡辺はケラケラとお腹を抱えているが、笑われたほうの田口は面白くない。先ほどまで捕まっていた佐々木に付けられたキスマーク。保住に見られたら気まずい。田口はそばに置いてあった使い捨てナプキンを取り上げると、必死にそれを拭った。
「大友教育長、タクシーは下に……」
足早にかけてきた大友の顔色は悪い。酔ったのだろうか。彼は矢部の言葉に「ありがとう」と短く返すと、さっさと階段を降りていった。
見送った三人は顔を見合わせた。あっさりと帰っていった彼の様子に、やはり騙されていたのだ、と田口は確信した。
彼が保住を気に入っているというのは、あまり深い意味はなかった、ということだ。渡辺は「最後の大友さん見送り完了!」と手を打ち鳴らした。
「大友さん、なんだか飲み過ぎかな? 顔色悪かったみたいですね」
矢部は渡辺を見た。渡辺は安堵し切っているようで、「そんなことはどうでもいい」とばかりに肩をすくめた。
「まあいいじゃないか。素直に帰ってくれたんだ。よしとしよう」
誰もいなくなった宴会場に視線を戻す。あんなに大賑わいだった会場だが、こうして見るとなんとも寂しげに見える。自分たちが帰らないと、食器の片付けは始まらないのだろう。渡辺は「おれたちも早めに撤収だ」と言った。
田口は保住の姿を探す。宴会の最中。保住の姿を一度も見ていない。会場内にいるといっていたはずだったが。
「あの、係長は?」
田口が問いかけると、控室の忘れ物の最終確認を終えた谷川が戻ってきた。
「局長もお帰りになりました。係長、途中で気分を悪くしたみたいで、局長が送っていくそうです。終わったらおれたちも早々に引き上げろって言われてるけど」
「そうか。だから姿見なかったんだな。局長が一緒なら大丈夫か。どれ、じゃあおれたちも帰ろう」
時計の針は十時前だった。渡辺に促されて、田口たちは総務係の職員に挨拶をしてから会場を出た。
——無事に終わったというのに、この妙な胸騒ぎはなんだ?
田口は不安な様子で三人に尋ねる。
「あの、係長は大丈夫なのでしょうか?」
「大丈夫だよ。局長がついていれば間違いないよ。あ〜、疲れたー」
——自分だけが心配なのだろうか? みんなは気にならないのか。
途中から姿が見えない保住が心配で仕方がないのに。守るどころか結局は、自分のことで手一杯だったなんて、本当に情けない限りだ。
——本当に大丈夫なのだろうか。
心に余裕がない。三人の気持ちが「帰りたい」に向いていることはよく理解できた。しかし。田口は胸騒ぎが治らなかった。大友は要注意なのかも知れないけど、田口が本当に警戒しているのは澤井だ。
澤井の保住への接し方は、上司部下の関係性を逸脱している。そう。彼の保住を見る瞳の意味。
きっとこの不安は、ほかの三人には理解できないだろう。保住を好いている田口だからこそ、わかること。ポケットからスマートフォンを取り出してみるが、保住からの連絡はない。
無言の車内で、田口は車窓を眺めていた。
あの人は、係長のことが好きなんだ。係長はどうなんだろう?
澤井と保住の付き合いは長い。自分には入り込めない何かがあるのだ。
なぜ、目を離した。仕事とはいえ。不甲斐ない。
いつも自分よりも何歩も前を歩く澤井。田口は嫉妬していた。疲れなど感じない。ただこの胸の中に燻る嫉妬と焦燥感に追い立てられて、気持ちが昂っていた。
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