第8話 罪悪感と許し


「おれは接待はしろと言ったが、売春婦みたいな真似までしろとは言っていない」


 澤井の視線をまともに見返すことなどできなかった。保住は俯いたまま、「そうでしたか」と頭を下げた。


「差し出た真似でしたね。失礼いたしました」


「大友は、前回もお前に絡んでいたようだが。本当に手を出してくるとはな。いいネタを作ってもらった。大友が教育長の間、梅沢は安泰だな」


 ——こんなことになっても自分の利益。澤井らしい。


 保住は笑った。いや、笑おうとしたのだ。しかし、唇が震えていた。声が震えているというのに。なんとかいつもの調子を取り戻そうと、減らず口を叩く。


「なかなか優秀な部下でしょう? 褒めていただきたいものですね……」


 視線を上げた瞬間。澤井の視線とぶつかった。彼の瞳は、軽蔑とも捉え難い、なんとも言えない色をしていた。保住は口を閉ざした。彼の考えていることがわからないのだ。


「さっさと服装を正さないか」


 澤井はぶっきらぼうにそう言った。そばに落ちていたネクタイを見つけて手を伸ばす。しかし。指先が震えてうまくいかなかった。かなりのショックだったらしい。


 ——こんな醜態を晒すとは……。澤井の目の前で……!


 目から涙がこぼれた。自分でも信じられない反応である。悔しい気持ちもある。しかし、その大半は恐怖……。一人になりたいと思った。それなのに、澤井はその場から動こうとしない。むしろ、彼のそばに来て座り込んだ。


「気にかけていたつもりだったが——すまなかった。お前が会場からいなくなったことに気付くのに時間を要した」


「澤井さん……」


 下から覗き込むように見上げてくる澤井の目にはっとした。彼の気持ちが理解できたからだ。澤井は保住のことを心配してくれているようだった。


 澤井の腕が伸びてきて、はだけたワイシャツのボタンを一つずつしめていく。保住は思わずその腕を握った。からだが震えて止まらないのだ。


 生まれて初めて『怖い』という感覚を覚えた。キスされた時、「平気」「いつものこと」なんて自分に言い訳をしていたはずなのに。本当は心底恐怖していたということだ。


 澤井は、大嫌いな人なのに、目の前にいる彼にすがるなど、バカげているはずなのに——。


「お前でも、そんな弱いところを見せることもあるのだな」


「すみません。初めて怖いと思いました。なぜでしょうか」


生娘きむすめでもないくせに」


「男性との経験はありません」


「そうか」


 澤井は淡々と保住のネクタイを締め直した。そして、しっかりと保住の腕を握り返した。彼のその熱に、心が乱されて平常心が保てない。朝からの疲れと突然の出来事で頭の中が全く整理できなかったのだ。


「保住。おれはな。ずっと、お前に謝りたかった」


「え?」


「お前の父親が死んだのは、おれのせいだ」


 目の前がチカチカした。大友に触れられたからだの一部が、火傷をしたみたいにチリチリするのだ。そして澤井に握られた腕も。


「父は膵臓癌で」


「止めを刺したのはおれの人事だ」


「そんなことはありません。あの人の問題だ」


「いや。からだが弱いのを知っていて国に出してやった。案の定、体調を崩した。おれのせいだ」


 地方自治体は国とのパイプを重要視する。そのため、毎年数名、国へ派遣されていくのだ。その一人に、保住の父は選ばれた。国での勤務は過酷だと聞く。省庁職員と同等の業務を任されるそうだ。


 国から帰還した父はやせ細り、体調が悪くなっていた。膵臓癌だった。仕事に追われ、自らの体調は後回し。そんな調子だから、見つかった時は手遅れだった。


 当時、澤井は人事課長をしており、保住の父親を国へ派遣することを決めた張本人だと聞いているが、彼の決定が保住の父を殺したのではないということは明白だ。なのに、澤井はそのことをずっと悔やんでいたということか。


「国への人事はいい話でした。それに耐えられない父が悪いのです」


「しかし。あいつを国にやらなければ、家族もいた。もっと早くに病に気がついていたのではないか」


「膵臓は沈黙の臓器と呼ばれています。見つかった時は手遅れ。それが常識だ。あなたのせいではないと言っているのです」


 澤井は笑った。


「お前は強情だ! 父親そっくりだ」


「本当のことですよ。あの人は遅かれ早かれ死んでいた!」


「それでは謝れないではないか。おれの気持ちはどうなるのだ」


 ふと声色を落とし、考え込むような澤井の仕草に、はったとした。


 ——この人は許しが欲しかったのか。


 父親が死んでから、苦しんでいたのだろうか。


 ——知らなかった。


 鬼みたいな形相で、のさばっているのではない。内心は保住の父親への罪悪感で満ち満ちていたということだ。


 入庁してすぐに澤井の元に配属されたのは、自分を監視し、潰すためではなかったということ。澤井は、自分自身の背負ったものを、どこかで下ろしたかったのだろう。


 先日の料亭での邂逅を思い出していた。あの時、澤井は父親のことが「好き」だと、愛情があったと言っていた。


 自分は、澤井が大嫌いだった。新卒時代、随分と嫌がらせをされた。係長とぶつかると、すぐに呼び出し。しまいには、彼に四六時中監視され、雑用を強要され、無理難題ばかり押し付けられた。手を上げられたことも多々ある。


 暴力で人を抑圧するのは好きではない。「こんな男に屈するものか」と意気込んでいたのを思い出したのだ。


 しかし、今。目の前に跪く男は、その澤井ではない。罪悪感でいっぱいの、許しを得たいと訴えてくる瞳の色に心が大きく揺さぶられた。思考が思うように働いていないから、誤作動を起こしているのだ。——きっと。


 自分にそう言い聞かせて、そっと澤井の土色の顔に指先で触れた。細いその指先は、冷えている。澤井の頬は熱かった。


「保住」


「父の代わりでもいいですよ」


「だから、おれは……お前には、」


「それでも、少しでも満たされますか」


「なに?」


「おれが代わりをしたら。あなたは解放されるのでしょうか?」


 澤井の瞳が懺悔するような色からの戸惑いに変わり、そして明らかに情欲の色を帯びた。


 男に犯されそうになった自分を、彼はどう見ているのだろうか。父親に対しても、情愛の念を抱いていたということなのだろうか。


 ならば一度だけでも。自分を父親の代わりに抱いたら、彼は救われるのだろうか?


「やってみなければ、わからんな」


 澤井はそう囁くと保住の腰に手を回して引き寄せた。その腕は熱がこもり、保住のからだが軋んだ。

「ここはもうお開きだ。場所を変えようか——保住」



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