第7話 控室の情事
「大友教育長……」
からだを起こそうとしても、大友が上から伸し掛かってきて、椅子に押さえつけられた。
——ここは。控え室。
いつの間に、大友はこの部屋の存在を把握していたのだろうか。薄暗い部屋だ。鏡の前のライトだけが
「今年こそは逃さないからね。次はないと思っているし」
「大友さん……っ」
保住は抵抗しようと試みるが、全く大友は動じることがない。まるで犬が匂いを嗅ぐように、クンクンと鼻を鳴らす大友。
「ああ、いい匂いがするよ。一度でいい。君を味わってみたい——」
「気味が悪いことを言わないでください」
「悪いようにはしない。しかし、断ると澤井さんが困ることになるでしょう? それはよくわかるはずだけど」
澤井の話が出て、ふと彼を思い出した。
——あの人の事だ。「そんなもの、グダグダ言わずやって退けろ」と言われそうだ。仕事だと思えという事か。
からだが鉛のように重かった。面倒になると、ひょっこり自分の嫌な部分が顔を出す。仕事のことなら、死んでもなんとかしようと思うくせに。自分自身のことになると、どうでも良くなるものだ。
だから知らない人間とも成り行きで一夜を共にしてしまうことが多々あった。本当は人に触れられるのは好かない。大友は特に嫌だ。だが仕事だと思えば——ほんのひと時の我慢か。大騒ぎを起こすのも面倒だ。
——田口だって佐々木と楽しくしているではないか。もう知らない。どうでもいい。「守ります!」なんて言っていたくせに、当てにもならない奴だ。……どうでもいい。
そんなことで片付けられることではないということも理解しているくせに、思考が停止する。面倒だった。全てが面倒。保住の腕から、抵抗する力が抜けた。
保住の態度に、大友は肯定の意味を感じ取ったのか、口元を緩めて気味の悪い笑みを浮かべた。
「嬉しいよ。物わかりが良い子は好きだ」
「物わかりが良いとは言い難いですが、——面倒事も嫌いだ」
「そういう子もまたいい」
頬に添えられた大友の手は大きい。太い指がくすぐったく感じられた。分厚い唇が、自分の唇に触れてくると、柔らかくてふにゃふにゃした感覚を覚えた。
日本酒の味がする。
大友は相当酔っているようだ。軽く口を開くと、誘われるように大友の舌が入り込んでくる。酒の味が保住の口内に広まっていくのが不愉快だった。
目を閉じた。目の前の男がどうでもいい人間で、大友だと言うことを認識したくないのだ。
そんな保住の心中など、察する余裕もない大友は無我夢中の様子だ。そのキスは容赦ない。余裕がないのがよくわかる。貪るような舌の愛撫。息もつけないくらいだった。
「ん……ッ」
——苦しい。息がしたい。
大友のからだを引き離そうと押し返しても叶わない。首をもたげても大きな手によって引き戻されるのだ。意識がかき乱されるのが嫌で、彼の肩を強く押すと、ふと離れた唇から入り込んでくる新鮮な空気に咳き込んだ。
「すまない、つい。夢中に」
「大、友さん、勘弁してくださいよ」
「だって」
彼は熱っぽい視線で保住を見る。
「やめられないだろう。保住」
「な、なにを……」
「君は自分のことだから気がついていないかもしれないけど」
「なんです?」
「男を
「は?」
バカにされているみたいだ。男が、「男を唆るタイプだ」などと言われて喜ぶわけがない。むしろ、侮辱されいているようでプライドが傷ついた。
「な、なにをバカな……」
「知らないだろうな。うん。でもね……」
そんな言葉、言われたことがない。いや、そもそも男とこんな風になったことがないから、わからない。
「失礼なことを言わないでください」
「失礼なことだろうか? 賛辞のつもりだがね」
彼は最後まで言い終わらないうちに、更に唇を重ねてくる。彼の言葉の意味がわからないせいで、思考は更にかき乱された。
——なにを言っているのだ。
元々血迷った男だから、真に受ける必要はないのに。こちらが誘っているみたいに言われるのは心外だ。何度もキスを繰り返されると息が上がる。
——こんな男相手でも、からだは素直に反応するものなのだろうか?
「これ以上もしたい。——いいでしょう?」
そんな言葉を囁かれても、意味がわからないくらい、頭の芯がぼうとしている。唇が離れたかと思うと、耳をねっとりとした舌が這った。
「はっ、嫌だッ……っ」
「感じるんだね。可愛い反応だ」
「や、止めろ……ッ」
腰がざわざわとして逃れたいとからだが自然に
「いつも冷たい態度の君じゃないみたい」
——言うな!
そう思うのも、束の間の理性だ。直ぐに大友の刺激で頭がいっぱいにされる。
——だめだ。流されていく。いつものパターンじゃないか。どうでもいい人間とからだを重ねるいつものあれ。
田口と知り合ってから、そんなことはしていなかったのに。田口の顔がちらついた。佐々木とイチャイチャしている田口の顔が。
「可愛い、可愛すぎる」
大友のいやらしい囁きが、不快な気分にさせる。
——こんなことは、やはり間違っている。否定しなくては。
そう思った瞬間。控え室の扉が豪快に開いた。
「こんなところにおられたか。大友さん」
ドス黒い重低音は澤井の声。大友は驚いて保住の上から飛び上がった。
「うちの部下を可愛がってくれるのはありがたいが、会はお開きだ。タクシーを待たせておりますからどうぞお引き取りを」
澤井の眼光に、大友は首を引っ込めるしかない。このような場面を彼に見られるなんて、弱みを見せたくないはずだ。
「お疲れ様でした。大友教育長」
澤井の全く労いの気持ちもない棒読みの挨拶に、大友はいそいそと控え室を出ていく。
「またね。保住」
澤井の前を小さくなって通り過ぎて、階段を駆け下りていく大友は哀れに見えた。しかし、もっと自分の方が惨めである。服装を正す余裕もなく、からだを起こした保住を澤井は見下ろしていた。
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