第5話 地獄絵図

 

 時計の針は六時五十五分を指す。「後、来ていないのは」と谷川は参加者リストを眺めて苦笑する。


「問題の県教育長大友だけだな」


「まだお見えになっていませんね。後お一人なら、おれだけで充分です。谷川さん。先に上に戻ってください」


「そうか? 別におれも中で聞きたいわけではないけどさ」


「局長に嫌味言われますよ。会場には、少しでも職員が揃っていた方が喜ばれます」


 谷川は肩をすくめた。


「確かにな。おまえの言う通りだ。じゃあ、お先」

 

 桃色の絨毯が敷き詰められている階段を登っていく谷川を見送ってから、田口は自動ドアに視線を戻す。大友は開式の挨拶という大役が待っている。遅刻などありえない。必ず来る。そう確信して、田口は真っ暗になってきた外を見つめ続けていた。


 平日の利用客は少ない。医療機器メーカーの会合があるだけだ。そちらはあらかた人が集まり、既に会が始まっているようだ。一階ロビーには、上品なクラシック音楽が小さくかかっているだけだった。


 ——大友教育長……。どんな人がきたって、なんとかする。


 そんなことを考えていると、意外にも大友ではなく、二階から保住が姿を現した。もう始まるのだろう。挨拶をしなくてはいけない主役が来ないのだ。澤井に様子を見て来いとでも言われたのだろう。


「まだ、いらっしゃいません」


「全くルーズなだからな」


 保住は心底、嫌悪するかのように、表情を険しくして、舌打ちをした。


「男——?」


 田口は目を瞬かせて保住を見下ろした。


 ——だって、手を握るって。そして、しつこく付き纏うって……。


「え!? ……大友教育長って、男性——ですか」


「そうだが」


 てっきりふくよかな中年女性を想像していた田口は、目の前が真っ白になった。おばちゃんに手を握られる保住は、想像しやすいが、太ったおじさんとなれば話は別。


 ——絶対に別!


 田口は一気に本気モードだ。


「絶対、触らせません!」


「田口……」


 むうむうとしている田口を見て、保住は苦笑した。いつもより覇気のない保住に田口は視線を落とす。顔色が悪かった。相当、疲弊している様子が見て取れた。


「お疲れのようですね」


「流石に一日こんなことばかりだと疲れるようだ。日常業務が一番だな」


「県の研修会はいかがでしたか」


ちゅうおうの方向性は変わらない。いつものことだな」


 するとタクシーが一台止まり、男が慌ただしく降りてきた。


「来たな」


 保住と田口は頭を下げた。


「お待ちしておりました」


「ごめん、遅くなっちゃって。タクシーの運転手が行き先間違えるからさ。驚いちゃったよ」


 ちらりと頭を上げると、なるほど。谷川の言葉通り。大友という男は、小太りで田口よりも随分と小柄だった。


 彼は顔を真っ赤にさせて、ふうふうと深呼吸をしている。身につけているスーツはブランドものだが、「この男が着ると、お洒落なスーツも台無しだな」と田口は思った。


 体型の問題ではない。滲み出ている人間性が、人に嫌悪感を与えるような、気味の悪い男だったからだ。

 

 彼は保住の姿を認めると、不気味な笑みを浮かべてから、さっそく手を取った。


「久しぶりだね〜。保住ちゃんにまた会えるなんて、今日はツイてるなあ」


「お久しぶりでございます。大友教育長」


「やだな、堅苦しい挨拶なんて止めてよね」


 保住は営業スマイルだが、気分を害しているのは、よくわかる。田口は保住の手を両手で撫でるように握っている大友の肩を掴んで方向転換させる。


「時間もございません。ご案内致します」


「あ、あの」


 心残り、とばかりに保住を見ている大友だが、田口のエスコートからは逃れられない。大友を強引に引き連れて、田口は二階へと上がった。




***




 会場は地獄絵図。渡辺たちから聞いていた以上に、その場は混迷をきたしていた。田口はただ唖然として会場を見渡していた。


 紳士淑女の様相だった参加者たちは、酒が入るにつれ言葉が乱暴になり、大騒ぎになる。


「私はね、昔から! あんたのその物言いが気にくわないって言ってんのよ」


 隣町の教育長の佐々木女史。彼女は、ワイングラスを片手に、他の教育長たちに絡んでいた。


「佐々木さん。飲み過ぎだよ」


「うるさい! 飲んで悪いなら酒なんて置いとくなよ」


 渡辺たちが一斉に走り出し、佐々木女史を宥めすかす。「素敵なお召し物ですね」と言う渡辺の言葉に、彼女は気をよくしたのか、彼の腕を捕まえると酒を勧め始めた。


 助けた方がいいのだろうかと、思案していると、後ろでグラスが割れる音がする。慌てて振り返ると、そこでは加藤という男が箸を指揮棒にして歌を歌い始めている。


 ガラスの片付けをしようと屈んだ女性が、踏みつけられそうになっている。田口は咄嗟に彼女を庇うようにかがみ込んだ。体格が大きい田口のことは、酔っていても気がついたのだろう。


 加藤は「邪魔だよ、君」と怒鳴った。


「失礼いたしました。グラスが割れていたので。加藤様がお怪我でもされるのではないかと心配になりました」


 田口の手にあるグラスの破片を見て、加藤は「これは失礼した」と頭を下げた。そもそもは悪い人たちではない。ただ少し。お酒の力で羽目を外しているだけなのだ。


「大丈夫?」


 ウエイターの女性は「ありがとうございます」と目元を赤くした。


 これが聖職者と言われている人々かと思うと頭が痛んだ。過酷の意味を今まさに理解する。精神的なダメージは破壊力を増す。


 ——係長は……保住さんは、大丈夫か?


 田口は視線を巡らせる。彼は壁際に目立たないように立っていた。顔色が悪い。熱中症の時みたいだ。彼がこの場にいる必要はない。どこかで休むように、声をかけに行こうと足を踏み出した途端に、佐々木に捕まった。


「あら、あなた。見たことない顔ね」


 彼女は田口を値踏みするように頭のてっぺんからつま先まで眺め回す。不快な気持ちを顔に出すまいと、田口は務めて笑顔を作った。


「佐々木様。梅沢市役所文化課振興係の田口です。今年から配属になったばかりです。どうぞよろしくお願いいたします」


 頭を下げてから顔を上げると、彼女のトロントした瞳と視線がぶつかった。なんだか嫌な予感しかない。そして、それは的中した。


「そうなの? なかなかいい男じゃない。私のお酌係に任命してあげましょう!」


 ——嘘だろ?


 佐々木は逞しい腕を田口の腕に絡ませた。


「申し訳ありません。あの、業務がありますので」


「あら! 私の接待も仕事の一つでしょう?」


「それは……」


「そんなに恥ずかしがることはないのよ。坊や。さあ、いらっしゃいな」


 保住の元に行きたいのに、叶わない。あちらもこちらも、職員一人一人が精一杯。誰も人のことを構っていられるほどの余裕がないのだ。


 ——これは。酷い!


 考えが甘かったと思っても、後の祭りだ。保住に何事かないようにと息巻いていたはずなのに、まさか自分が巻き込まれるだなんて……。


 ——甘かった。


「さあ、可愛がってあげるわ。光栄に思いなさい」


 佐々木の声は悪魔の囁きのようだった。





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