第9章 代替えとしての役割

第1話 残業と憂鬱

「うおおおお。今日は残業! 今日は残業……だっ!」


 矢部の声に他の職員は苦笑するしかなかった。こうも気持ちが言葉になって出てくると無視するわけにもいかないからだ。


「残業はいつものことではないですか」


 田口は呆れるが矢部は譲らない。


「いつもの残業と言えるのか。この残業が! この地獄の残業が!」


 田口はぐるりと職場内を見渡す。渡辺も谷川も。みんなの顔色が悪い。今日の残業はいつもとは違う。それは田口も承知していること。そう。今日は、澤井から手伝いを指示されていた例の教育長研修会なのだ。


 表向きは研修会の受付、会中の接待、からのお見送り。しかし、保住につきまとうという問題児の排除。それが田口の裏使命だった。


 開会は午後六時半。終了は午後九時を予定しているものの、片付け時間まで考慮すると、帰宅出来るのはもっと遅くなるだろう。


 明日は、金曜日で仕事が待っていると言うのに、ひら職員には理解できないことである。こう言った催しは、週末に企画してもらいたいものだが。


 教育長たちの相手をするということは、いつもよりはグレードよく服装もそろえなければならない。


 田口は、文化課振興係に配属になった初日に袖を通していたスーツを出してきた。そんなにいい物でもないが、これぞという日に切る事に決めているからだ。


 他の三人も、ネクタイピンをしてみたり、ちょっとおしゃれなピンクのシャツをまとったり、少しは気を使っている様子が見て取れる。


「そして、こんな時に限って……」


 渡辺は大きくため息を吐いて、保住の席を見た。そこに保住の姿はない。彼は本日一日、不在なのだ。


「澤井局長と県のなんやかんやの研修らしい」


 渡辺の言葉に矢部と谷川は不安げな表情を見せた。


「鬼がいない分、穏やかな一日にになるに違いないけど」


「精神的な安定がないよな……」


 谷川の呟きに田口も同感だ。今日はなにせ、夜に危ない案件が控えていて、みんながソワソワとして落ち着かないというのに。肝心の保住がいないのだ。彼の存在の大きさを痛感した。


「落ち着きませんね」


「本当だ。不安で仕方がないな」


 渡辺は苦笑した。しかしその笑みも長くは続かない。矢部の冗談もいつもよりも少なかった。


「おれも不安ですね。今晩はいったい、どんな事になるのでしょうか」


 田口は神妙な調子で呟くと、ふと谷川が間髪入れずに突っ込みを入れてきた。


「無表情なのに?」


「そう言わないでくださいよ」


「お、口答えするようになってきたな」


「茶化さないでください」


 田口はぶっきらぼうに答えるが、こうして谷川もまた、気を紛らわせていることくらいわかっている。だから、あえて知らんぷりするのだ。そして、そうしている田口の心理も、みんなは理解しているのだ。


 このチームは、こうしてやってきた。お互いがお互いの気持ちを察して、さりげなくフォローしてくれる。


 ——いい仲間なんだ。


 田口は不安を抱えているのが一人ではないと理解し、なんとなく安堵の気持ちになる。


「今日は五時にはここを出て会場入りをする。会場には五時二十分到着予定。メインの総務担当者は四時半には会場入りしているそうだ」


 渡辺は今日のスケジュールを読み上げた。


「おれたちの持ち場は受付。人数がそうそういないから、それも早めに終わることだろう。受付業務終了後は、講和は約三十分。七時から隣の会場に移動して、懇親会だ。懇親会では、特にやることはないが、内々の任務としては、はみ出したり、悪さをし始めたりするメンバーを集団に戻すこと」


「それが一番、難題ですね」


「だな」


 渡辺の説明を聞き、自分たちの任務の再確認を行うと、一同は顔色を暗くした。


「終了後は、メンバーをタクシーに乗せてお見送りするところまでが仕事だ」


「わかりました」


「了解です」


「ともかく、今日の日常業務はほどほどに。夜に余力を残しておくようにと係長からのお達しだからな。みんな心しておけ」


 お開きになったミーティング。それぞれが落ち着かない様子でパソコンに向き合っている中、田口はため息を吐いた。


 どんなに大変な仕事なのか想像もできない。予測ができないものほど恐ろしいものはない。後で情報収集しなければならないだろう。恐ろしい気もするが、その方が少しは安心できるかもしれない。

 しかし。それよりもなにより、田口が気に掛かっているのは、保住と澤井の出張のほうだ。


 県の研修で事務局長の澤井が、わざわざ出向くものなのか。しかも保住を同伴しているのが気に食わない。嫌な気持ちになるのは気のせいではない。なんだか今日は、一日疲れる日になりそうだと思った。




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