第3話 父親と子



 祖父は目を細めて保住を見ていた。


「大きくなったものだ。なにもしてやれなかったが、こうして立派になってくれて嬉しい」


「立派というのかどうかわかりませんが、人並に大人にはなりました」


 じっと祖父の目を見ているだけで、からだがビリビリと痺れてくるような感覚に陥った。保住はやっとの思いで言葉を絞り出した。


なおくんの、そう言う物言いは、兄さんそっくりだね」


 祖父の隣に立っている叔父は、ふと苦笑した。それに応えるように、祖父もまた笑みを見せた。


征貴まさたかから聞いている。市役所で係長になっているそうだな。お前のその年で係長を拝命するというのは稀だとか」


「そうですね。その通りです。なにを評価されたのかわかりませんけれどね。父の七光りではないことだけを祈っています」


「確かに田舎の役所ではあるが……。今時、縁故採用などがあるわけでもあるまいし。お前がお前の実力で手にした地位だ。大事にしなさい」


 保住は黙り込んだ。祖父はふと口元を緩ませた。


「お前は父によく似ているな。天命だったのかも知れない。それなのに——。私ときたら。あの時はどうかしていたのだ。アレの意志を無視して、私の後を歩かせようとした。私の人生は、あの瞬間まで、幸せに満ちていたというのに。私の思いのせいで、不幸のどん底に落ち込んだ」


 ——利己的考え。あなたのその押し付けが、父の人生も変えたのです。

 

 保住は押し黙ったまま祖父を見ていた。この男は、自分を主語に語る。しかし、彼のその誤った行動が、周囲の人々の不幸を招いたのだ。


 保住の父親は、保住家を出、一人で梅沢市役所に就職した。その後、加奈子と出会い結婚。二人は両家の支援を受けることもできぬまま、保住と妹のみのりを育てた。


 この男は、我が息子の葬儀にも参列しなかった。そこまでして息子が、自分の思い通りにならなかったことが憎かったのだろうか。父が死んだのは保住が大学生の頃だ。別段、祖父が姿を見せなかったことについて、心動かすほどの関係性もなかった。しかし——。


 父親の人生は一体、なんだったのかと思ったのだ。彼は、妻と子を得て、家族を持った。だがしかし——。本当にそれでよかったのだろうか。寡黙な父親だった。いつも微笑を浮かべた穏やかな人柄だった。彼がどんな思いを抱えて死んでいったのか。保住には知る由もない。


 父親の思いを聞いてこなかった自分への後ろめたさが、祖父に向かっているだけだということは十分理解している。父の代わりに祖父を恨んだところで、死んでしまった父が、本当に祖父を恨んでいたかなんて知る由もないのに。まるで父の代弁者のように、祖父を恨むことで、父の思いを知った気になっているだけ。くだらない茶番だ——。


 祖父と対峙してみて、保住は自分の心の内を知った。


 ——そうだ。おれは。父との対話を怠ってきた自分に、腹を立てているだけなんだ。


「貴方は不幸になった——とおっしゃいますが、周囲の人間はどうでしょう。父はどう思っていたのでしょうか。おれにはわかりませんけど。不幸になったのは貴方だけではないということだ」


 保住の言葉に、祖父は大きく頷いた。


「その通り。どうしても自分のことばかりに思いを注いでしまうものだが。相手のことも考えなくてはいけない。あの子を失ってしまうように仕向けたのは自分だし、すべてが私が招いた結果なのだ」


「確かに貴方の元からは去った。けれど失われてはいない。父の人生は、市役所に入り続いていたのですから。父は優秀な職員だったそうですよ。こうして父と同じ場所に身を置いてみて、父を感じられることがたくさんあります」


「私はあの子を後継者に据えたかったのだ。しかし、あの子は拒んだ」


 ——それが親の驕りだと言うのだろう。子は親のものではない。一人の人格だ。それを親がどうこうしようとすると、そこにひずみが生まれるものだ。


 しばらくの静寂の後、叔父の征貴まさたかが口を開いた。


「兄さんは小さい頃から銀行員にはならないと言っていっけ。おれはお金の勘定が大好きだったし、父さんと同じ仕事をするのが憧れだったからね。別になんの違和感もなくこの道に入ったけど。兄さんは違っていたね」 


 彼は兄との思い出を懐かしむかのように、遠くを見つめていた。


「兄さんは、父さんが嫌いだったわけじゃない。父さんがいるなら、おれは他の道でみんなを助けたい。そう言っていたんだ」


 祖父はただ瞼を閉じ、そしてじっとしていたが「私は愚かだった」と呟いた。


 父親の気持ちは保住にはわらない。寡黙で自分の胸の内を話すような人ではなかったからだ。


 ——そうか。この人たちは、自分の知らない父親を知っているのだ。そして、後悔していたのか。


 ふと張り詰めていた気持ちが緩んだ。祖父は、自分の過去を悔やんでいたのか。


「私に似てとても頑固な息子だ。どんなに周囲から言われようと、自分の意思は曲げないし、我が道を行く。社会に出て苦労することは目に見えていた。だからこそ、自分の元に置いておきたかった。——あの子はもうこの世にはいない。だがしかし。もし私のところにいたら、もう少し生き長らえたのではないかと思ってしまう。子に先立たれるのは辛い。一日でも長く生きていて欲しかった」


 守ってやりたい親心という言葉は、保住にとったら、親のエゴにしか聞こえない。田口家の芽依の話を思い出した。子を思う親は、みな同じ気持ちになるというのか。


 ——しかし。子にとってみれば、親の心配は重荷でしかない。


 今までは、父親の視点だけで物事を見てきた。祖父や叔父の話を聞くことで、保住の心は大きく揺れ動いた。その事に戸惑い、ただ黙り込んでいると、ふと田口が口を開いた。


「あの、おれは保住さんの知り合いの田口です」


 唐突に彼が名乗りを上げたので、祖父は驚いた顔をした。静かなので、存在すら認知していなかったらしい。


「そうか。尚貴の」


「家族の問題ですから、部外者が口を挟むのはおかしいですが、部外者だからこそ思うこともあります。お話ししてもよろしいでしょうか」


 礼儀正しい田口の態度に祖父は頷いて笑った。


「聞いてみたいものだ。この話をした時に、血縁以外の者がいるのは初めてだな」


「ありがとうございます」


 彼は確認するように保住に視線を向けた。「話してもいいか」という許可を求めているのだろう。保住は田口を見据えたまま、ゆっくりと頷いた。すると田口は、低くて柔らかい声で話を始めた。


「おじいさんも、お父さんも、互いに譲れないものがあるのは仕方がないことだと思います。喧嘩別れも当然のことなのだと言うことも理解しました。だけど、おじいさんの気持ちは、お父さんには痛いほどよくわかっていたのではないですか?」


「そうだろうか」


「そうです。だって、おじいさんは息子さんの気持ちがわかりますよね?」


 田口の問いに、祖父は頷いた。


「あれは意地っ張りだが、一番、保住家のことも考える子だった」


「子供は親の傘から逃れられない。反対されることをわかっていながらもなお、市役所の職員を選んだんです。背中を押してもらえるなんて思ってもいない。きっとあなたを裏切ることしか選べない自分が、嫌だったのではないでしょうか」


 保住は目を見張った。


 ——確かにそうかも知れない。勘当されているから、祖父のところに行けないのではない。自分の心がそうさせていたのかもしれない。父とはそういう人だ。


 自分に厳しい人だった。ストイックで、自分自身を追い詰める。


「そんな息子さんの気持ちを知りながらも、自分から近づいていく事が出来なかったのではないですか?」


「意地っ張りで嫌になるな。変な意地で、最愛の息子の葬式にも行かないだなんて。私の人生狂っている」


「それもまた意地ですか? 行けなかったの間違いでは?」


 田口の言葉に祖父は豪快に笑い出した。


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