第2話 祖父
保住に指定されてやって来たのは、梅沢市立総合病院だった。車を止めて保住を見ると、彼は「すまなかった」と頭を下げた。
先ほどの電話は、祖父の件だったのだと確信した。保住の表情は硬い。ここへの道すがら、言葉数も少なかった。容体があまり良くないのかもしれない。田口はじっと黙ってハンドルを握っていた。
「車で待っています。時間気にせず行ってきてください」
保住をおいていくのは忍びない。どうせ休日だ。時間はたくさんある。保住のことをここで待っていよう。そんなふうに気楽に考えていたのだが、保住は車を降りる素振りを見せなかった。
むしろ、軽くため息を吐いたかと思うと、田口の顔をじっと真っ直ぐに見つめていた。
「田口。もう一つ甘えもいいか」
保住が何を言い出すのか。田口はその視線をまっすぐに見返した。すると、彼は言いにくそうに視線を逸らし、小さな声で「一緒に来てくれ」と言った。
保住の願いは、田口にとったら驚きの内容であった。赤の他人である自分が同席をする理由は見当たらない。しかも友 友人や親友とも言い難い関係性。ただの職場の上司と部下だ。部外者の自分が同席してもいいものかと惑ったのだ。
「あの……。おれでいいのでしょうか」
「お前に来て欲しいから言っているのだ」
田口は戸惑う。その戸惑いは「否定」に聞こえるのだろうか。保住は俯いた。
「願いを聞いてはくれないのか?」
その言葉にドッキリとした。保住は真剣な眼差しを再び田口に向けていた。迷っている場合ではないと思った。自分は保住の要望に答えなくてはいけない。田口は大きく頷いた。
「わかりました。おれでよければ」
田口の返答に、ほっとしたかのように保住は表情を緩めた。
「叔父からの電話だった。祖父の容態が悪いと言うのだ。やはり一目も会わずにあの世に行かれたのでは、さすがのおれでも寝覚が悪いからな」
「それはそうですね」
「気持ちは乗らないが、仕方がない」
いつもだったら颯爽と歩く保住だが、気が乗らない気持ちが滲み出ている。いつもよりもスローペースで歩く保住の斜め後ろを、田口はゆっくりと歩いて着いて歩いた。
向かった先は七階の個室病室だった。木製のシックな扉は、他の病室とは一線を画す。「特別室」である、ということが予測された。
隣に立つ保住の緊張が伝わってくると、田口まで心臓がドキドキとした。保住の祖父とは、どんな人間なのだろうか。
地方銀行である梅沢銀行は、市内では幅をきかせていた。その梅沢銀行の頭取まで勤め上げたということは、保住の祖父は金融世界のドンである。
——恐ろしい。どんな強面の
いつまでもその場から動かない保住の様子を見下ろして、田口は妙だと思った。静かだと思ったのだ。危篤と言っていたが、こんなに穏やかなものなのだろうか。まだ午前中ということもあって看護師たちは、患者の療養の世話に追われている。
危篤だったら、この部屋にたくさんのスタッフがいてもよさそうな話だ。しかも、保住家の他の人たちの姿が見えない。
様々な疑念が脳裏をかすめるが、隣の保住は相変わらず強張った表情を浮かべていた。それに気がついて、田口はそっと彼の肩に手を添えた。
「大丈夫ですよ」
自分の不安な気持ちを抑え込んで声をかけると、珍しく顔色の悪い彼は、そっと田口を見た。
「田口」
「一緒におります。大丈夫です」
いつも彼がそうしてくれるように。今日は田口がそうしようと思った。保住は、田口の気持ちを理解してくれたのだろう。少し笑を見せてから、ドアをノックした。
病室の扉をノックすると、中から明るい男の声が聞こえた。叔父の
「おはようございます。
「どうぞ!」
がらっと扉が開くと、恰幅のいい人当たりの良さそうな男性が顔を出した。
「やあ! 待っていたよ。悪いね。朝から」
ほんわかした笑顔の叔父、征貴の表情を見た瞬間、事実を理解した。
——危篤などではない。
これは叔父が自分を呼び寄せるための口実。そう理解した。保住は思わず後ずさる。緊急事態であるから、こうしてきたのだ。そうではないというならば。ここにいる理由はない。
「帰ります」
保住は踵を返すが、征貴に腕を掴まれた。彼は「そう言わないでよ」と苦笑いを見せる。体格で言うと、征貴に敵うわけもない。
征貴はそこで田口に気がついたようだ。ふと視線を彼に止めた。保住は田口をぶっきらぼうに紹介した。
「知人です。足がなかったので送ってもらったのです」
「こんな休日朝から付き合ってくれるなんて。いい友人だね」
田口は礼儀正しく頭を下げる。保住が混乱していて、てんで使い物にならないというに。田口は落ち着いたいつもの調子だった。
「田口と申します。申し訳ありません。このような大事な場面に、部外者の自分が同席させてもらってしまって……」
田口の挨拶に征貴は笑った。
「随分、お堅いお友達だね」
「田口は根が真面目で」
「そのようだね。さあさあ、こんなところで立ち話なんて病院に迷惑がかかってしまうね。中にどうぞ」
「ですから。あの!」
征貴は、強引に保住の腕を引いた。保住は軽々と病室に引き摺り込まれた。中は普通の病室の何倍の広さがあるのだろうか。ホテルのような作りだ。思わず周囲を見渡す。
窓辺に木目調のベッドが置いてあり、そこに新聞を広げている老人がいた。線の細い、柔らかい瞳の男。父親にそっくりだ。と保住は思った。彼は、保住のことを見て「
「父ではありません」
保住の返答に老人は、はっと弾かれたように顔を上げて、首を横に振った。
「すまない。尚貴だな」
「そうです。初めまして、でしょうか?」
保住は言葉を切る。緊張していた。この人が祖父だ。保住の父親そっくりであり、自分にも似ている。誰がなんと言おうと。保住が硬く否定しようと。二人は血縁である。
「初めてではないのだよ。お前は覚えていないと思うが、お前が生まれて直ぐ。一度だけ、抱かせてもらったことがある」
「おかしな話ですね。確か、その頃はすでに父は勘当されていて、貴方とお会いする機会はなかったはず」
「そうだ。そうだった。けれど、お前が生まれたと聞いて、堪らなくなったのだ。私の想いを理解していた
「母が、——ですか」
意外な話だった。保住の父親は、結婚前に保住家と縁を切っていたから。母である加奈子が、祖父の思いを知る機会があったのだろうか。
保住は高校卒業とともに、すっかり実家からは離れている。父親が亡くなった後、母親が保住家とどんな付き合いをもっていたかはわからない。
しかし、よくよく考えてみれば、みのりは祖父の息のかかった銀行に就職しているのだ。父親亡き後。母は保住家を頼っていたことは明白だった。
——別にそれはそれでいいのだ。
祖父との確執は父親の問題だ。みのりは可愛い孫でもある。彼がみのりの人生に手を差し伸べるという行為は、当然と言えば当然であるはずなのに。
なのに、なぜか母親やみのりが裏切っていたような気持ちに陥るのはどういう了見なのだろうか。自分だけが蚊帳の外であったことが面白くないからなのだろうか。
——違う。おれは。父の葬儀にも姿を表さなかった、この人が嫌いなんだ。
我が子が自分の思い通りの道を歩まなかった。それだけのことで、父を放り出した。なんと横柄な親だと憤った。
柔な雰囲気の中に秘められた、芯の強い、人を威圧するような眼光。齢八十を過ぎるというのに、そのカリスマ性は衰えることはない。どこか人に畏怖の念を抱かせるような姿は、澤井とも違っていた。もっと別次元のその不可思議な威圧感に、保住は圧倒されていたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます