第9話 苛々

『いつもの自分に戻ろう』


 保住は一人きりになった職場を見渡してから、両手で両頬を何度か叩いた。しかし。そう思えば思うほど、どうしたらいいのかわからなる。


 田口と過ごしてしまった時間は、巻き戻せるはずもなく。一度、知ってしまったものは、忘れることができないという事なのだ。


 孤独なんて日常茶飯事だったのに、田口がくれた時間は、保住にとったら心地がいいものだったらしい。


 仕事に没入しようと居残りを決め込んだというのに。仕事のことなど、到底考えられるような状況ではなかった。瞼を閉じると、田口のことばかりが頭の中を巡ぐる。


 イライラしていた。

 イライラしていた。


 突き放したら、捨てられた子犬みたいな顔をしていた田口。雨の中ダンボールに収まって、クンクンと鳴いている姿が脳裏から離れない。まるで自分で捨てておいて、雨が降り出したから心配になって戻る小学生のようだ。


 ——馬鹿みたいな妄想だ。


「イライラする……。くそ。二日しかもたないのか」


 自分にイラついて、パソコンのキーボードを乱暴に叩いた。


「バカみたいだ!」


 吐き捨てるように呟いてから、パソコンをシャットダウンした。それから、リュックを背負い事務所を後にする。


 ——おれは、どうかしている。どうかしてしまったのだ。


 自分が自分ではないような感覚に、不安を覚えた。


 一人が当たり前だった。


「係長。お手伝いできることはありませんか?」


 田口の穏やかな笑顔。

 一人寂しい世界はもう嫌だった。

 

 田口と出会ってから、今までの淡々とした生活が、いっぺんに騒がしくなった。静かに暮らしたい。騒がしいのは苦手。なのに、彼がいないと心が落ち着かない。


 一人きりで生きてきた。

 

 誰に嫌われようと。

 誰に後ろ指を指されようと。

 誰に怒鳴られようと。

 自分は自分の思うがままに生きてきた。


 そして、保住の生き方に異論を唱える人は少ないし、みんなが自分の思う通りにやらせてくれていた。


 しかし市役所に入ってから、思い通りにならないことばかりだった。


 澤井という男に押さえつけられて、息苦しい思いばかりしてきた。けれど負けたくはなかった。自分は梅沢に住む人たちが好きだ。みんなが笑っていられる町を作りたかった。父親の後を追っているだけではない。


 そのためには、色々なものと闘ってきた。保住の姿勢に賛同して、渡辺たちのように、必死についてきてくれる職員も少なからずいるが、基本的に闘いは孤独だった。これは自分自身の闘いなのだ。そう思っていたというのに。


「係長」


 田口の声が耳から離れなかった。


 時折見せる笑顔は、中学生みたいにあどけない。大型犬のくせに優しい目をしていて、そして保住に纏わりついてくる。

 

 仕事で失敗すると、尻尾を丸めてしゅんとした顔をする。まるで捨て犬みたいに鼻をクンクンと鳴らしているようだ。


 そのくせ、みんなに愛されている。田口は実家にたくさんの家族がいて、みんなが彼を愛していた。


 保住にとって、田口という存在がどんな意味をなすのか。それはよくわからなかった。けれど、一つだけ確かなことがある。


「おれにとって、田口は必要不可欠な存在であるということ」


 保住は小さく呟くと、階段を駆け下りてから、IDカードをかざし退勤手続きをする。そして暗い夜道に出て歩き出した。




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