第8話 田口を励ます会

「元気出せよ! おれたちが聞いてやるって言ってんだろう」


 落ち込み甚だしい田口の肩に腕を回し、矢部はビールを煽った。終業前。突然に渡辺たちに「飲みに行くぞ」と言われた。田口はとてもそんな気分ではない。お断りしようと口を開いた瞬間。終業のベルと共に、腕を引かれて連行された。



 連れてこられたのは役所近くの居酒屋、赤ちょうちんだった。


 金曜日の夜ということもあって、狭い店内は満員御礼だ。そのほとんどが市役所職員である。


 矢部はその太い腕で田口の首を絞めてくる。本来ならば抜け出すことも容易な状況だったが、今日はともかく、何をするにも気力が湧かなかった。


 田口は「別に、落ち込んでいません」と小さい声で答える。


「ああ? 聞こえないぞ、この野郎! 嘘だ! 『おれは傷付いている、助けて!』って顔しているぞ」


 向かい側にいる谷川も「そうだそうだ」と口を挟んだ。


「お前たち。もっと優しくしてやれよ」


 渡辺は仲裁に入ってくれるが、二人は日頃の鬱憤晴らしもあるのだろうか。今日は妙に田口に絡まってきた。二人に攻め立てられて、田口の心はキリキリと痛んだ。


 視界がぼやけて、目の前がじわじわと熱くなった。


「ほらみろ! 泣いちゃったじゃないか!」


 渡辺の声で、初めて自分が泣いていることに気がついた。田口は思わず目元を指で拭った。こんな。馬鹿みたいだと思った。


 大の大人が。人前で泣くのか。


 ——辛い。生きていくのって辛いんだな……。


「な、泣くなよ!」


「そうだぞ! 男だろ?!」


 自分自身が可哀想になってくると、涙はとめどなく流れていく。三人が慌てているのが不憫に見えた。


「男だって、涙が出ることはあります……」


「なんだよ。辛いのか? 仕事か? 女か?」


 日本酒で満たされたコップをテーブルに置く。悲しい気持ちで胸が張り裂けそうだった。


 先ほどまで田口を攻め立てていた矢部は、今度は優しくなだめすかしてくれるようだ。「よしよし」と背中を撫でてくれる彼の手は、グローブみたいに大きくて暖かい。田口の傷ついた心にじんわりと染み入ってきた。


「おれ、なにかしたのでしょうか? ——係長に嫌われてます」


「はあ?!」


「そこ?!」


 田口の理由に、渡辺は笑い出す。笑わなくてもいいのに。そう思うと、余計に涙が出る。


「な、泣くな! わかったって。田口は係長が好きなんだろう?」


「だ、だって……」


「係長もお前がお気に入りだ。どうしたっていうんだよ?」


「昨日から、口を利いてくれません……。仕事も任せてもらえません……」


「口は利いているだろう。無視はされていない。係長が事業のかなめを他人に渡すのは見たことがないんだぞ。お前は信頼されているだろう? そう気に病むなよ」


「しかし——」


 昨日から保住の様子がおかしいかった。よそよそしい。今までのように田口に仕事を与えてはくれない。信頼されていないような気がして、気持ちが落ち着かないのだ。


 ——おれのこと、信用してくれなくなったのだろうか。


「お前、係長の家族に体調不良の方がいることは聞いているか?」


 渡辺の言葉に、田口は顔を上げた。


「はい」


 確かに。祖父が入院中と言っていた。しかし、それとこれとが関係あるものだろうか。田口は渡辺を見つめ返す。彼は得意そうに言った。


「なら話は早い。係長は今プライベートのことで頭がいっぱいなんだ。別にお前を嫌いになったわけじゃない。だろう?」


「それは……」


 田口はコクコクと何度か小さく頷いた。


「そっとしておいてやれよ。人間、一人になりたい時もあるものだ。気にすんなって。きっとそっちが落ち着いたら元の係長に戻るよ」


 矢部や谷川の励ましの言葉が素直に入ってこないのはどういうことなのだろうか。


 田口は感じ取っていた。保住が自分に対しての態度を変えた理由は、祖父の体調不良だけではないということ。それは一番近くにいる自分だからこそ、嗅ぎ取れるものなのだ。


 保住は祖父のことを深刻には受け止めていなかったはずだ。それとも、田口の知らないなにか事態が急変するようなことでもあったのだろうか。


 ならなんでも話してくれればいいことだ。なにもよそよそしくしなくてもいいではないか。そう思ったのだ。


 この三人にいくら励まされたり、慰められても、田口の心が満たされることはない。


 ——あの人にそっぽを向かれてしまうと、こんなに不安になるなんて……。


 いつのまにか、田口の中の保住はとても大きな存在になっていたのだ。


「さあ、今晩はお前を励ます会だぞ。さっさと飲めよ」


「——はい」


 賑やかで明るい席なはずなのに、田口の心は更に深く沈み込むばかり。


 それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。渡辺たちが開いてくれた「自分を励ます会」がお開きになり、田口は一人帰途についた。


 星空の綺麗な夜だった。週末は、どこもかしこも人通りが増える。浮ついている街を一人歩きながら、田口はずっと保住のことばかり考えていた。


 一緒に仕事がしたい。

 信頼してもらいたい。


 ——そして。笑顔を向けて欲しい。


『田口』


 彼の口から、自分の名を呼ばれることが、どんなに幸福なことか。どんなに、たくさんの人に認められたとしても、たった一人のあの人に認めてもらえなかったら。田口の心には、ぽっかりと穴が空いたままだ。


 ——満たされない。


 自分が欲しいのは——。


 ——たった一人。


 きっと『保住』という、その人だけなのだから。






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