第7話 おかしな二人

翌日の金曜日。谷川は渡辺に向かってメモを一枚差し出した。そこには「田口、変じゃないですか?」と書かれていた。渡辺はメモを置いてから、斜め前に座る田口を見た。


 彼はどこかぼんやりとしているようだ。パソコンを見てはいても、その瞳は、それを見てはいない。何度もため息を吐き、手は止まっていた。


 渡辺は隣に座る矢部を肘で突く。それから、「心、ここにあらず。上の空で元気がないな」と囁いた。


 すると矢部は、小さいな声で返す。


「あちらもおかしくないですか?」


 矢部の視線の先には保住がいた。彼もまた、心ここにあらず。ボールペンをくるくるっと回している様子を眺めているばかり。


 こんな保住を見たことがないと渡辺は思った。


「なんだか。喧嘩っぽくないっすか」


 矢部のコメントはあながち間違いではないだろう。あんなに田口を頼っていた保住が、彼の名を呼ばないのだ。


 一体、二人の間に何があったと言うのだろうか。渡辺は両腕を組んで「うーん」と唸った。


「確かに。喧嘩だろうなあ」


 三人のコソコソ話にも気が付かないくらいの二人だ。渡辺は席を立つと、二人を呼んで廊下に出た。


「喧嘩ですか? でも喧嘩しているところ、見かけていませんよ」


 谷川は驚いた顔をして首を横に振った。

 

「二人で残業していることも多いからな。おれたちの知らないところで拗れたのかもしれないだろう?」


「で、どうするんです。係長も田口も仕事しなくなっちゃったら、困ります」


 矢部は泣きそうだ。事務所の扉を少し開けて中の様子を伺う。三人が席を立ったことなど気が付いていない二人は、相変わらずぼんやりとしている。


 ——困ったものだ。


「なんだか、まどろっこしいですね」


 谷川はそういう時、一つの提案をした。


「これは飲み会じゃないですか」


「飲み会でなんとかなるだろうか」


「なんとかするしかないですよ。係長も田口も、仕事の話はしても、余計なことは話さないじゃないですか。飲み会で思いを吐き出させるしかないです」


「おれもそう思います」と矢部も同意したのを見て、渡辺は腹を括った。少々、この険悪な雰囲気の中、飲み会を切り出すのは勇気のいる所業だ。


 三人は飲み会の算段を始めた。それから、一通り話がまとまれば、あとは切り出すタイミングを図るだけ。間違ってはならない。


 渡辺は、昼下がりの静かになった雰囲気を見計らって、その話を切り出すことにしたのだった。田口をダシにして、保住に飲み会の提案をする。それが渡辺の作戦だ。


 渡辺は予算書を差し出した。


「田口。悪いんだけどさ。財務に書類置いて来てくれるか」


「あ、はい」


 眠くなる時間は、事務所自体がまどろんでいるような気配だ。そんな中、渡辺の言葉に弾かれたように顔を上げた田口は、のそのそと立ち上がった。そして、何を思ったか、そのまま出ていこうとした。矢部は慌てて追いかける。


「おい! この書類だってよ! 持っていけよ!」


「あ、すみません……」


 彼はぺこっと頭を下げてから、書類を抱えて事務所を出ていった。


「やっぱ、おかしいわ」と谷川が首を横に振った。田口が出ていくのを確認した渡辺は、隣の保住に声をかける。


「係長」


「……」


「係長!」


 大きな声を出した瞬間、保住は弾かれたように目を見開いて渡辺を見た。


「やっぱ、こっちもおかしいわ」


 今度は矢部が呟く。


「すみません。なんです? 渡辺さん」


「いえ。大きな声を出しました。それよりも、係長。気が付いていますか? 田口がおかしいんですよ」


「——係長もね」


 矢部は小さく付け加えるが、保住の耳に届くことはない。渡辺は笑いそうになりながら、勤めて真面目を装った。


「田口が?」


「ええ。上の空で。精神的なショックがあったんじゃないですかね」


「仕事でトラブル起こしたわけでもあるまいし」


「ですが、おかしいですよ」


「係長はなにかご存知ではないのですか? あいつ。プライベートでなにかあったんじゃあ……」


 保住は目を瞬かせて谷川を見返していた。


「さて。おれはあいつのプライベートまで細かくは知らないです。そもそも、田口の様子が変だなんて。すみません。気が付いていませんでした」


「ですよね」


「本当かな?」


 矢部はまた付け加えるが、これもまた保住には気が付かれないようだ。


「期待の新人が動かないのでは困りますよ。今日の夜、飲み会をしましょう。田口の目を覚させないと。係長も来てくださいね」


「いや。あの。おれは……」


「部下の一大事なんですよ?」


 渡辺の必死の言葉にも関わらず、保住は顔色を悪くしてから首を横に振った。


「すみません。——実は家族が入院しているのです」


「え! そうなんですか?」


 そこで渡辺は、はっとした。先日。「保住」と名乗る男性から外線が入っていたことを思い出したからだ。


 ——そうか。あれはその家族の件だったということだな。


 保住の親族から、職場に電話が入るのは初めてのことだったので、よく覚えている。保住がぼんやりとしている理由がそれであると理解した渡辺は、少々安堵の気持ちを覚えた。どうやら、田口の異変とは関係がないらしい。喧嘩だったらとヒヤヒヤとしたのだ。


 この職場はチームワークが大事だ。どこか綻びが出てしまうと、今年一年間が大変なことになるからだ。


 内心ほっとしてしまうと、表情も緩みがち。笑ってしまわないように、さも神妙な顔つきをして

「それは、ご心配ですね」と保住に声をかけた。


 彼は渡辺の心中など知る由もないか。蒼白な顔色で軽くため息を吐いた。


「高齢なもので。いつどうなるのかもわからないそうです。なので、申し訳ないですが、今晩の飲み会はお断りさせてください」


「そうですか……。そうですよね。そんな一大事に、飲み屋で騒ぐわけにもいきません。けど、こちらとて一大事ですよ。新人くんがおかしくなっているんです。任せてください。おれたちで、田口はなんとかします」


 保住は「ありがとうございます」とだけ言った。

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