第5話 保住家の人間
木曜日。週も後半に入って来ると、週末への期待と、疲労の蓄積から、職場の雰囲気は妙な雰囲気が漂っていた。
イベントの取り扱いをする振興係は、休日関係なしに出勤させられることも多いが、何事もない週末の前は、どこか浮き足立っているようにも見えた。
「今週は連休だろー。家で寝まくる!」と豪語している矢部を横目に、田口は見積書を計算し直していた。
昼下がりの事務所は、どこか気だるく、だらけたような空気も漂う。うっかりすると、睡魔に襲われそうになる意識を奮い立たせて、パソコンと向かい合っていると、外線が鳴った。
電話を受けるのは下っ端の田口の役割だ。田口は、弾かれたように受話器を持ち上げた。
「はい、梅沢市役所文化課振興係の田口です」
『あの、保住と申しますが、保住
——保住……?
男性の野太い声は、どこかくぐもって聞こえて、ざわついている事務所の中で、その声は聞き取りにくかった。
田口が知る保住の身内は、母親とみのりだけだ。男性の影がない。一瞬戸惑うが、相手も少し緊張しているのだろうか。そんな間延びした田口の対応に違和感を覚えることはないようだった。
「あ、あの。失礼いたしました。おります。少々お待ちください」
保留ボタンを押して保住を見ると、彼はパソコンに何かを打ち込んでいるようだった。
「係長、あの。外線が……」
彼はパソコンから目を離すことなく返答する。
「誰?」
「あの。保住さん、という方です。男性の……」
言いにくそうに答えると、保住は目を見開いて顔を上げた。眠そうな瞳が一気に不機嫌そうな色になる。彼はただ黙って受話器を取り上げた。
「保住ですが。……どうも。ご無沙汰しております」
彼の声色は暗い。
——保住さんの……親族だ。おじいさんのこと、だろうか。
気になる気持ちを抑えて田口は仕事をしているフリに努めた。
***
『
久しぶりに聞く叔父、保住
「どうも。ご無沙汰しております」
『そんなかしこまらないでよ。兄さんの葬式以来だね』
「そうですね」
『市役所の係長になったって聞いてはいたけど、凄いね。頑張っているじゃない』
人好きのする愛嬌のある男。電話口の相手は父親の弟だ。
「いえ。やれることをやっているだけです」
『またまた。兄さんみたいなこと言っちゃって。尚くんは、本当に兄さんに似てきたね』
「一番、言われても嬉しくない言葉だ」と、思いつつ保住は黙る。
『ごめん、ごめん。仕事中に。プライベートな連絡先を知らないものだから。おじいさんの件は聞いているでしょう?』
「勿論です。ですが、おれがどうこうする問題ではありませんよね?」
『そんな冷たいこと言わないで。確かに、兄さんのことは勘当していたからね。葬式に行かなかったのさね、それはそれで、あの人の意地だったんだよ。兄さんを亡くした後は、
正直そんなことは関係ない。我が子が好きな道を歩む事を反対する親など身勝手。しかも、我が子の葬式に参列しない親がどこにいる——そう思ってしまうからだ。
『おじいさん、君に会いたがってるんだよね。どうだろうか。兄さんは、近すぎて無理だったけど、君はどうだろうか』
——会いたがる?
母親が言っていたことは本当だというのか。今更なんだ。自分には関係のない話だ。ただ黙り込んでいると、征貴は笑った。
『急に言われても困るね。一応、おじいさんの入院先を教えるので、考えてくれないかな? あんな父親でも僕にとったら父親でね。兄さんにとってもそうだったし。君にとったら祖父だ。よろしくお願いします』
叔父はそう言うと、保住に病院の名前を告げて電話を切った。
『今度、家にも遊びに来て欲しいな』
彼は確か——、梅沢銀行のどこかの支店長をしていると聞いた気がする。
みのりは、祖父や叔父のいる梅沢銀行への道を歩んだ。そのため、自分よりも保住家の人たちと近しい。それは祖父が望んだ道でもある。だがしかし。自分は違う。保住は父と同じ道を選んだのだから。
——それから外れた父さんやおれは。あの人にとったらいらない存在なはずだ。それなのに、何故今更、オレに会いたいと言うのだ。わからない。おれは、あの人の人となりすらわからないのだから。
祖父とは物心ついた時から面識がない。父親が死んだ時、彼は姿を見せなかった。きっとすごく憎んでいただろうし、許せなかったのだろう。
その反面、父親の意思を受け継いで歩んできた弟の征貴。彼は保住の父とは真逆なタイプだった。人当たりがよく、温和で立ち回りも上手くて、不快な気分にさせずに人を動かすことに長けている。
「征貴さんは、おばあさま似なのよ。とても温和でいつも笑っていた人でしたからね」
そう母親が言っていた事を思い出した。
受話器を置いてから、そのまま腕組みをすると、またドロんとした黒いなにかが、心に入り込んでくる。
——飲み込まれそう。
そんな錯覚に陥った時。
「係長」
随分と大きく、田口の声が聞こえた。弾かれたように顔を上げると、田口が自分の肩を掴んでこちらを見ていた。
「田口……」
「書類の確認をしていただきたいのですが」
「あ、ああ——」
目を瞬かせてから書類を受け取る。さっき添削したものから、大した代わり映えのしない書類だ。
「田口、直っていないぞ。さっきのままだ」
「え、そうですか。すみません、早合点です。もう一度やり直します」
彼は頭をかきながら席に戻っていった。その後ろ姿を見送って、動悸がしていた心臓が落ち着くのがわかる。田口は。わざと自分に声をかけたのだ。そう感じた。
田口は、保住の異変に気がついたのだろう。敢えて声をかけて、現実に引き戻してくれたのか。
——また助けられた。
甘えすぎだ。
なにもかも甘えすぎ。
自分らしくもない。
人に寄りかかるなんて。
少し距離を近づけすぎている気がするのだ。
——怖い。
人との付き合いは当たり障りないものが多かったから、ここまで他人が踏み込んできたことはなかったのだ。
なんだか怖かった。
祖父のこともあって、普通ではないことはわかっている。余計なことを考えているのだということも理解している。だけど、なんだか足元が覚束ない感じがして、少し怖い気持ちになった。
こういう気持ちを紛らわすには仕事が一番だ。みんなが帰っても、一人で残って仕事をしたい。仕事に没頭すれば、嫌な時間がどんどん過ぎ去ってくれるからだ。
だから保住は仕事に没頭する。
「あの。係長。なにかお手伝いしますか」
みんなが帰宅している中、田口が自分を見ていた。
彼は、他の職員よりも優秀だ。面倒な説明をしなくても、自分の意図することを理解して、適切に仕事をこなす。いちいち聞きに来ることもないが、でき上がった仕事に間違いはない。だから、——つい、なのだ。そばにあった書類を持ち上げてから、はっとする。
「いや。——いい。今日は帰れ」
「しかし。まだ山のように残っているようですが」
「いや。これは係長としての仕事だ。お前に肩代わりさせられない。いいんだ。先に帰れ」
——田口は納得しないだろうな。
案の定、田口は不満そうな顔をしていた。「自分だってできる、やらせろ」という顔だが、首を横に振って、自分の気持ちを押し殺した。
「すまない。一人で集中したい。今日は大丈夫だ」
「そうですか。邪魔になるようなら。おれは帰ります」
田口はそう言うと、ぺこっと頭を下げた。
——そういうつもりではない。そういうつもりでは……。
しかし一度、口にしてしまった言葉を引き戻すことは不可能だ。少し寂しそうに帰っていく田口を見送って大きくため息を吐く。
「バカか。おれは。なにをしている……」
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