第4話 八つ当たりの理由と理解者



 田口は黙ったままサンドイッチを保住の手に握らせた。


「……足りないと思いますけど。おにぎりより、こっちでいいですか」


「部下におごってもらうつもりはない」


 意地を張る必要もないのに、心のドロドロが、心を荒立てる。口から出てくる言葉は素直ではない。言葉とは裏腹にサンドイッチを握りしめた保住を見て、田口は口元を緩めた。


「どうぞ。——おれもいただいたんです。おばちゃに。おにぎりを食べる予定だったので、こちらはどうぞ。係長が食べないなら捨てます」


 手に乗せられたサンドイッチに視線を落とす。


「さあ、食べましょうよ」


 ——余計なことは言わないのか。恨み言でも言われてもいいくらいなのだが。


 袋を破っておにぎりを食べ始める彼を見て、保住も習ってサンドイッチを食べ始めた。


 ——腹が減っていたようだ。


 そういえば、昨晩からなにも食べていなかったことを思い出す。糖分が足りないと、頭も回らない。久しぶりの食べ物は美味しく感じられた。


「うまい」


「そうですか。普通のサンドイッチですけど」


「……田口」


「はい」


「——すまないな。八つ当たりした」


 保住は少し和らいだ気持ちに乗り、田口に謝罪する。


「謝られるようなことはないと思いますけど」


「いや。完全なる八つ当たりをしてしまった。昨晩は遅くまで仕事をさせたというのにな。すまなかった。お前の予算書が切り札になった。ありがとう」


 頭を下げると、田口は顔を赤くした。


「そんなことやめてくださいよ。部下として当然のことをしただけです」


 田口は嫌な思いをしただろうに。はにかんだ笑みを見せた。保住は苦笑する。


 ——本当に。お前というやつは……。


「どうやら。お前には、つい甘えてしまうようだ」


「いいんです。どうぞ甘えてください。係長は、いつも一人で気を張ってやっているじゃないですか。一人で踏ん張ることはないです。おれにできること……って言っても、大したことはできませんけれども。少しでもできることがあるなら、なんても言いつけてください」


 ——そうか。田口は、おれのことをよく理解してくれている……ということか。


『保住くんには簡単なことだったわね』

『こんなこと、保住には朝飯前だろう?』


 昔からそうだった。頭の回転が速い分、人よりも多くのことをこなすことができた。そのおかげで、いろいろなことを軽々とこなすように見られてしまうことが多い。


 しかしそれは誤り。保住はずっと悩み苦しんでいる。人生も、仕事も。彼の本質を理解しているのは、母親くらいなものかも知れない。それなのに。田口は保住の本質を見抜いてくる。保住の心中を察してくる。


 田口はおにぎりを食べ終えると「おれ」と言った。


「おれ、家族多いし。いろいろなこと言われることも多いんですよ。どんと受け止めますから。どうぞ、いつでも八つ当たりしてください」


 八つ当たりウェルカム、なんて言われたことは初めてだ。保住は苦笑した。


「本当。お前には参るな」


「そうですか? おれ、なんの取り柄もありませんから。係長に使い道見つけてもらって、本当に嬉しいです」


「田口……」


「自分の特技も特性もわからないし。自分でもどういう立ち位置がいいのかよくわかっていない。だけど、この部署に来て、自分のやるべきことが見えてくるし、自分ができることも見えてきた。楽しいです。仕事」


 田口はそう言うと笑顔を見せた。彼の笑顔はまるで飼い主を見て「嬉しい」としっぽを振る大型犬みたいだ。彼の笑顔は無条件で保住の心に安寧をもたらす。ずっと心に引っかかっていたドロドロが落ちていくようだ。


「祖父が——」


「え?」


 保住は、サンドイッチを一切れ食べ終えてから、ふと呟く。


「祖父が入院したと、母から連絡があってな」


「……それは。いいのですか。行かなくて」


「病状も病院もわからないし。聞いてもいない」


「どうしてです?」


 なぜ、田口にこんな話をする気になったのかわからない。けれど口から自然に言葉が出てくるのだった。


「祖父は銀行員で、長男であるおれの父を同じ銀行員にするのが夢だった。だが、父は市役所を選んだ。祖父は父を可愛がっていたようだ。後継者として、溺愛していた。なのに、父は祖父の意向に離反した。祖父は父を勘当し、おれたちは保住家と縁を切られた。

 そんな調子だから。おれは祖父の顔をよく知らない。父が死んでも葬式にも顔を出さない人だったからな。おれにとったら、祖父は祖父であって、祖父ではないのだ」


「そんなことってあるんですね」


「親子の憎しみは、他人には計り知れないものがあるようだ。おれは祖父や祖母の形を知らない」


「そうですか……。しかし、連絡は来るんですね」


「母がどうしたものかと相談をしてくる。あの人も一人だからな。相談できる相手がいないようだ」


「しかし、困りますね」


「そうだ。行くつもりはないのだろうが。自分の不安をこうしておれに押し付けてくる。おれも引き受けるつもりもないが、こうして心にとどまってしまうと、どうにも処理できないようだ」


 田口はそっと保住の横顔を見る。


「家族の問題は、ちょっとしたことでも大問題です。心にとどまって、全てに影響を与えてきます」


「そうなのだな」


「係長はお見舞いに行きたいんですか?」


 尋ねられてはっと顔を上げる。考えもしなかった。


 ——見舞いに行くのか? おれが? 会ったこともない人に? 祖父は、どう思うのだろうか。


 母親は祖父が保住に会いたがっていると言っていた。しかし、その意図がわからない。祖父が自分に会いたいと思うその裏には、一体なにがあるというのだろうか——?


「まさか。会いに行ったら『帰れ』と一喝されて終わりだろう」


「そんな怖い人なんですか?」


「梅沢銀行の頭取とうどりまでやった御仁ごじんだ」


「それはそれは……」


 保住は笑う。


「銀行員なんてスーツを着たやくざと一緒だ」


「それは言い過ぎですよ」


「そうか?」


「でも、係長の顔には、そんな迷いが書いてありますけどね。係長のおじいさんだったら、結構な御年ですよね? 心配な部分があるのではないですか」


 ——それはそうだ。死んだら死んだで構わないはずなのに、なぜ気になるのだろうか。


「亡くなる前に、一度は顔を合わせたい。そう書いてありますけど」


「田口……」


「すみません。調子に乗りました」


「いや。いいんだ。すまない。こんな話をするおれが悪い」


 ため息が出た。田口に指摘されたことは、あながち違っていないからだ。


「そうだな。考えてみよう」


「それがいいです。係長は思量深い人だ。きっといい答えが出ます」


「褒めているのか?」


「おれは、いつでも褒めています」


 ——田口との会話は気兼ねがなくていい。救われる。仕事のことも。こうしたプライベートなことも。


「本当に、育ちのいい奴だな」


「そうでしょうか? あんな田舎育ちですよ」


「だからいいんじゃないか」


 いつのまにか。保住の心に救っていたドロドロはどこかに消えた。保住の心は軽くなる。この調子なら、いつも通り仕事ができそうだった。田口のおかげ——。そうだ。きっとそう。


 保住は田口に感謝の気持ちを抱きながら、満開の桜を見上げた。








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