第7章 自覚する恋心

第1話 会議バトル





「妹が世話になったそうだな」


 翌朝。出勤すると、保住の不機嫌そうな声が飛んできた。田口は荷物を置いてから、「世話というか。——おはようございます」と頭を下げた。保住は視線を上げることなく、「おはよう」と返答した。


「帰宅途中、合コンの帰りのみのりさんに出くわしただけです。世話だなんて……」


「そうか? 随分と『さわやかで素敵な市役所職員』という印象を与えたそうじゃないか」


「嫌味ですか。それ」


 昨日はこの人の指示で深夜まで仕事をしていたと言うのに。なにを怒っているのだろうか。田口だって、さすがにむっとすることもある。じっと押し黙って保住を見下ろしていると、彼は「怒ったか?」と言って視線を上げた。


「怒っていません」


「怒っている声色だ」


「別に怒っているのではありません。ですが、からかわれているようで嫌なだけです」


「それが怒っていると言うのだろう?」


 そこで今まで黙っていた渡辺が、しびれを切らしたのか、間に割って入った。


「まあまあ、お二人とも。朝から、痴話げんかみたいなことをするのはやめてもらえませんか」


「痴話げんかって……」


 田口は顔が熱くなる。しかし、保住はしらっとしたまま渡辺を見るだけだ。


「けんかではありませんよ。ただ。からかっているだけです」


「やっぱり!」


 田口は「ひどいです!」と保住を見る。またけんかが再燃しそうな気配に、渡辺が「まあまあ」と両手を出した。


「朝一の会議のストレスをここで晴らすのはやめましょうよ。係長」


 渡辺の言葉に田口は我に返る。昨日、帰宅する時には、朝一の会議などなかった。ということは、田口が帰宅した後——つまり、深夜に突如として舞い込んだ会議だったに違いない。


 田口が指示された資料はそう多くはないが、もしかしたら保住は、徹夜同然で準備をしていたのかも知れない。目の下には隈ができ、寝癖もひどい。いつも蒼白な顔色が更に白く感じられた。


「徹夜だったんですか?」


「いつものことだ。放っておけ」


 八つ当たりされてむっとしていたはずなのに。保住が心配になった。しかし、彼は心底機嫌が悪いらしい。言葉数も少ないし、棘がある。


 一年、一緒に仕事をしてきたが、ここまで機嫌が悪い保住を見たことがない。怒る気も失せた。自分が入り込む余地が見えなかった。なんだか拒絶されているみたいで、居心地が悪かった。


***


 朝一の会議は散々だった。いつもだったら、保住がいいように澤井を言いくるめるのだが。今日の彼は機嫌が悪すぎる。途中、澤井と言い合いに発展し、昼時間にまで食い込んだのだ。


「この声楽家の集客率は七割を切ります。そんな声楽家を主役に据えても、集客は見込めません。やはり、世界的に名の知られている『宮内かおり』しかありません」


「そんなことはガキでもわかる。問題は金だ」


「合唱団をプロから市民合唱にすることで経費を抑えているじゃないですか。あちこちに予算をばらまいていたのでは、メリハリがなさすぎます。掛けるべきところに掛け、抑えるところは抑える。これが基本です」


 保住と澤井のやり取りを、田口たちはぽかんと眺めていた。


「なに肝に小さいこと言ってるんですか? !」


「そうは言うがな。保住。おれとお前の立場は違うのだ。いいか? おれは教育委員会の事務方トップとして、費用対効果の計算は必死だろう。お前みたいに、お気楽で冒険できるような立場ではないのだ。いいか? 我々はリスクと費用を最小限にし、それでいて最大限の功績を得なければならないのだ。他に得策がないのか、もっと慎重に検討しろ」


 澤井にここまで言わせておいて、尻込みをしない保住の度胸には感服してしまう。さすがの田口ですら、足が震えそうだ。保住は突然。両手でデスクを叩くと、身を乗り出した。それから、テーブル越しに向かい合っている澤井に顔を寄せる。


「次の副市長の席がかかっていますからね。冒険はお嫌ですか」


 保住の囁くような嫌味に、澤井は目を細めた。澤井が言い返さないのをいいことに、保住は言葉を続ける。


「今回の事業は『成功』では意味をなさない。『』ではないといけません。そうでしょう? 局長」


 保住の誘うような視線に絡め取られて、澤井は一瞬、言葉を失いかけたが、飲まれることはない。それだけ強靭きょうじんな精神力があるのだろう。気を取り直して、憎々しげに保住を見ながら、田口に手を出した。


「予算書を見せろ」


 田口は、昨晩、保住から指示されて作成した予算書を差し出す。


「主役を『宮内かおり』にした場合の予算書です」


 田口は腹に力を入れなおして説明をする。


 宮内かおりとは国内のみならず、海外でも人気のソプラノ歌手だ。本業のオペラやコンサート以外にも、テレビ番組にも顔を出すくらいの人気者だ。そんな彼女を主役に据えることができたら――。結果は目に見えている。


 だがしかし。彼女のスケジュールは何年も先まで埋まっていると聞く。今からでは遅いのかも知れないが、保住はそれを成し遂げようとしているということだ。


「会場を市運営の公会堂こうかいどうに変更をして予算を押さえました。合唱団は市民合唱団にしてあります。ただしノーギャラとはいきませんので、このくらいの予算は取っています」


 澤井は目を血走らせて予算書を見つめた。


「オーケストラの質は落とせません。プロは無理でも地方プロオケのオーダーは必須ですが、ここが一番のコスト高かも知れません。ただし、公会堂への打診次第では、経費はそちら持ちにしていただくことは可能かと」


「公会堂に予算をとらせると言うことか」


「そうです。公会堂では年に数回、プロの演奏家を招いた演奏会企画をしていますので、あちら持ちにすれば、交通費や楽器運搬費用を抑えられます」


「財布は一緒だがな」


 澤井は舌打ちをするが、保住はあっけらかんとしている。


「一つの事業での出費が大きくなるほど、議会で目立ちます。予算を分割することで、愚かな議員どもの目は誤魔化せます」


「まあな」


「同じ要領なら……」


 澤井の言葉に田口は頷く。


「無論、メインキャストも然りです。宮内かおりのリサイタルをもう一つ別の音楽ホール、星音堂せいおんどうで企画させます。どうでしょう? 経費削減を要所ごとに勘案してみた結果がこれです」


 田口の言葉と同時に、書類を見切ったのか。澤井は乱暴にテーブルに叩きつける。


 ——局長はどう判断する?


 一同は固唾を飲んで彼の言葉を待った。保住だけが一人、涼しげな顔をしていた。整っているが故に感情が乗らない顔だちは、まるで浄瑠璃の人形みたいで冷たい。田口は更に保住が遠く感じられた。


「わかった」


「局長……」


 渡辺は、ほっと表情を緩めた。


「おれは隠し事は嫌いだ。だから敢えて言うが、この事業は、おれの進退がかかっている。失敗は許されない」


「勿論です」


 矢部が答える。


「成功ではなく、大成功、ですよね?」


 谷川も頷いた。


「基本、他人は信用しない。しかし、こればかりは、おれ一人でやれるとは思っていない。お前たちのことは、然程さほど信用はしていないが、少なくとも他の奴らよりはやってくれそうだな」


「ありがとうございます」


 渡辺は頭を下げた。澤井に加担するのは澤井の手先になったみたいで不本意な気持ちになった。ここの部署の職員たちは、澤井に取り入って出世を目論むような人間ではない。


 澤井は名声や地位のため。

 職員たちは事業の成功。


 理由は違えど両者の目的は一致した。澤井と保住率いる振興係が共闘関係になったこの瞬間。ここに最強、いや、最狂さいきょうチームが誕生した。田口はそう思った。


 保住は澤井の返答に、話はしまいだとばかりに、書類をぐしゃぐしゃに握って立ち上がった。


「では、これにて」


「滞りなく進めろ」


「承知しました!」


 文化課振興課係のメンバーたちちは、局長室を後にした。

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