第5話 裏路地の再会


 田口はコンビニの袋を手に、夜道を歩いていた。今日も残業だった。


 イベントごとは待ってはくれない。今年は入れ替わりがなかったおかげで、昨年度に持たされた事業をそのまま同じ職員が担当することになっている。昨年度、苦労させられた星野一郎記念館のサロンコンサートも継続。今年度の企画は出来上がっているものの、それの運営に追われている毎日だったのだ。


 更に今年は、大きな新規事業が入ることになりそうだ。梅沢市を舞台にした、歌劇オペラの制作である。星野一郎の人生を歌劇オペラ仕立てで表現しようという企画らしい。


 今まで企画としては、何度か持ち上がっていたものだが、金も労力もかかる事業である。失敗は許されない。歴代の係長たちは、この企画をお蔵入りにして蓋をしてきたようだったが、保住はそれを実行に移すつもりらしい。


 ここのところ、保住はそのコンセプト作りで多忙だ。一年も経過すると、田口もぱったり手を離されていて、自分の仕事は自分でこなすしかない。田口が仕事を終えて、帰宅しようとしても、保住はまだ残っていることが多くなった。一緒にいる時間が減ってしまうと、なんとも寂しいものだ。


 帰宅途中、マンションのそばにあるコンビニに寄って、弁当と缶ビールを買った。別に飲みたいわけでもないが、心の寂しさを埋めるにはアルコールが一番だと思ったのだ。


 いつもいるレジのおばちゃんに挨拶をしてから、マンションに向かう路地裏を歩く。田口の自宅は、駅周囲の繁華街の一角にあった。近所には飲み屋も並んでいる。あまり環境的にはよくない場所であるが、駅から近いことを理由に購入した。


 時計の針は23時を回ろうとしているところ。マンションの近くにあるおしゃれなイタリアン居酒屋から女性が数名姿を現したことろに出くわした。普段なら目にも止まらないものだが、彼女たちの会話が耳に飛び込んできて、つい視線を向けた。


「もー、最悪~。今日は見込み違いだったわね」


「本当、時間の無駄だったわ」


「ごめん、だって向こうの幹事くんが、かっこよかったから友達もかっこいいって思うじゃない。普通……」


チョイスは怪しいからなー」


 ——「みのり」って……、みのりさん? 保住みのり?


 立ち止まってしまった田口に、相手も気がついたようでこちらを見た。彼女は保住に似た漆黒の瞳を細めて「あらやだ! こんなところ見られちゃった」と笑った。


「みのりさん」


 みのりはシックなグレーのワンピースに赤いヒールをはいていた。どうやら、「合コン」だったのだろう。田口は妙なところに出くわしたと思い、頭を掻いた。


 みのりは嬉しそうに田口の元に駆け寄ってきた。


「お久しぶりです。昨年は兄が色々ご迷惑をおかけしたのに、ご挨拶もしないですみませんでした」


 みのりはぺこりと頭を下げた。彼女の美しい黒髪が揺れると、ふと甘い匂いが鼻孔を掠めた。綺麗な女性は苦手だ。田口は狼狽えて、どうしていいのかわからずに、ただ黙って頭を下げた。しかしみのりはあまり気にしていないようだ。


 保住のように白い肌は、幾分上気しているように見受けられる。酔っているのだろう。


「仕事帰りですか? いつもこんなに遅いんですか?」


「いや。今日は残業で」


「兄に仕事押しつけられているんでしょうね。あの人。父のことが嫌いなくせに、自分のしてることは、父と同じですからね。黙ってることないですよ。文句言ってやってください」


 ——文句なんか言えるはずないだろ。上司だし。


「仕事ですから」


「また! そうやって、田口さんが甘やかすから、つけ上がるんですよ! 厳しくしてもらわないと」


「すみません」


 ——おれが甘やかしているのか?


 田口はとりあえず謝っておく。


「あらやだ。また、いつもの調子が出ちゃった」


 みのりはケタケタと朗らかな笑い声をあげた。こういうところは保住には似ていない。彼女と保住を比べて観察していると、今度はみのりの友達たちが「あのお」と顔を出した。


「みのり。どなたなの?」


「あ、お兄ちゃんの部下の人で——田口さん」


「こんばんは。田口です」


 一同は「きゃっ」と声を上げる。女性関係には疎い男だ。彼女たちが何に対して歓声を上げたのか。田口にはまったくもって理解できなかった。なんだか恐ろしくなって、少し後退した。


「みのりのお兄さんと同じ職場ってことは、市役所の職員さんですよね?」


「え、ええ」


「公務員も悪くない」と一人の女性が呟いた。田口は目を白黒させる。これは——。


「今度よかったら、わたし達と飲みに行きませんか?」


「しかし」


「私たち、梅沢銀行勤務なんです。時間は合わせますから。何人かお友達も。どうでしょうか」


 友達などいない田口に取ったら大変困る申し出だ。言葉に詰まっていると、みのりが口を挟んだ。


「だめだめ。お兄ちゃんにこき使われてる限りは、女子と飲み会なんてする余裕ないですもんね」


「えっと」


 目を瞬かせてみのりを見ると、彼女は目配せをする。話を合わせろというところか。


「すみません。毎晩、こんなもんで」


「えー! 週末は休みでしょう?」


「イベント系の部署にいるものですから。休みもほとんどないんですよ」


「ほら! あんまり困らせないで。時間あるときに調整してもらえるようにお願いしておくから。今日は帰ろ」


「えー、つまんないの」


 みのりは、納得しない友達たちの背中を押して方向を変えた。


「じゃあ、田口さん。また今度」


「みのりばっかりズルイー」


「お兄さんだってイケメンなのに」


 女性の集まりは恐ろしい。それを見送ってから、大きくため息を吐いた。手に持っているビールを飲む気にもなれない。


 ——今日は寝よう。


 そう思ってマンションに足を向けると、ポケットのスマートフォンが震えた。田口はそれを持ち上げて画面に視線を落とす。そこには保住からの新着メールの知らせが表示されていた。こんな時間にメールを寄越すのは保住だけだ。田口は口元を緩めてから、画面をタップした。


『明日、朝一で打ち合わせ。今日添削した資料を直しておけ』


 ここのところ、こうしてメールで指令がくることが多い。こんな夜更けに仕事の依頼。しかも明日朝までの話。本来であれば、「この鬼」と怒鳴ってやりたくなるはずなのに。保住が自分を頼ってくれていると思うと、嬉しい気持ちになるのだ。心が弾んだ。


 保住なら数分で終わる作業なのだろうけど、凡人の田口にとったら一時間はかかる作業だ。これは直ぐには寝られないらしい。


「仕事するか」


 軽く苦笑して、田口は自宅を目指した。

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