第3話 彼の「して欲しい事」

 半年が経ったが、田口が保住とプライベートの時間を共にするのはそうなかった。夏に実家に連れて行ったものの、あれ以来、仕事でしか顔を合わせてはいなかった。だから、こうして仕事帰りに二人で夕飯を食べるのは初めてだったのだ。


「すみません。今日はこれで失礼しますね」


 珍しく、定時過ぎに保住が立ち上がった。他の職員たちは時計を見る。


「本当だ。もうこんな時間。残業なしだなんて。係長もお疲れですね」


「たまには、早く帰ってみます。みなさんも、早々に切り上げてくださいね」


 渡辺たちも集中力が切れたのだろう。「そろそろ帰るか」と口々に言っているのをみて、田口も立ち上がる。


「おれもお先に失礼します」


「今日はお疲れだったな! また次回もあるし。ゆっくり休めよ」


 渡辺に肩を叩かれて、はにかみながら廊下に出た。先に出た保住は、待っていてくれるのだろうか。そんな思いが脳裏をかすめた瞬間、暗い廊下で人の気配がした。


 壁に身を預けて保住が立っていたのだ。彼は田口がやってきたことを確認すると、からだを起こした。


「行くぞ」


「はい」


 少しずつ。彼の考えていることが理解できるようになってきた。


 田口がすぐに出てくることを見越して、いや、そうしろという保住の意図を理解して出てくるものだと思っている証拠だ。


 先に帰宅したのに、廊下で待っているところを、田口以外の職員に見られたら不思議がられるに決まっているからだ。


「廊下で待つからさっさと出てこい」


 保住の意図は、そういうものなのだろうと理解していたからこそ、一番に事務所を出たのだ。


 言葉で指示されなくても、そう言った彼の「して欲しい事」がわかるようになってきたのは、少し嬉しいことだった。


 保住の背中を見つめながら、黙ってついていく。今日は、彼の行きたいところに行くと言っていたが……。


 正直、田口にとったら場所は、どこでもいい。ともかく、お礼が出来ればいいのだから。彼との時間を過ごすことが出来ればいいのだから。


 そう思いながら、着いて行くが、保住の足は止まらない。どんどんと前に進んでいく。


 てっきり市役所周辺の店を想像していたので、少々困惑してきた。


 歩き出した保住を見て、近場だと踏んでいたのだが——。今日は、どんどん徒歩で進んでいくのだ。田口は堪らずに、目の前を歩く保住に声をかけた。


「あの、係長。この辺の店ではないのですか?」


「ん? 違うけど」


「あ、そうですか。あまり遠くに行くと、車を置いていくことになりますよ」


「大丈夫だ。どうせ、お前は徒歩だろう」


「そうですが」


「そう遠くないところだ。黙ってついてこい」


「はい……」


 運動音痴という割には、こういう時の移動は早い。リーチが違うので田口の方が早く歩けるはずなのに、速足にならないとついていけない。


 必死に彼の後ろをついていくと、いつもは閑散としている町がにぎわっていることに気がついた。


 ——なんだ? この人混みは。

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