第2話 先約

 文化課振興係に来て半年が経過した。十月。夏が暑かった分、今年の冬は早く訪れそうな気配だ。


 異動になって初めて企画した事業が、日の目を見た。前職も企画系にいたので、イベントをやり切るという経験は何度もしてきたが、ここまで思い悩み、苦しんできたのは初めて。精一杯やり切った企画が成功したことは、この上ない喜びである。 


 田口は珍しく気持ちが浮ついていた。荷物を抱えて帰庁すると、事務所に入るすんでで澤井に出くわした。彼な姿を目にしただけで卒倒する職員がいると聞く。それは大袈裟かもしれないがら彼からはドス黒いオーラが立ち上っているのは確か。


 田口は一瞬、怯んだが、「お疲れ様です」と頭を下げた。しかし保住は知らんぷりだ。


 澤井はそのことを咎めるわけでもなく、「保住」と彼の名を呼んだ。


「外勤か」


「星野一郎記念館のサロン企画、後期の一回目ですよ」


「ああ。あの企画な」


 澤井はジロリと田口を見た。「お前のか」と言う顔だった。


「滞りなく」


 保住の報告に、澤井は鼻を鳴らした。


「問題ないなら、報告は報告書でいい。それより、今晩、時間を空けろ」


 ——今晩?


 ドッキリとした。部下と上司が同時に誘ったら。当然、上司を選ぶしかない。またか。また、澤井にとられる。せっかくの嬉しい気持ちが、一気に不安に変わった。自分との約束は反故されると確信したからだ。


 しかし、保住は興味がなさそうに頭をかいた。


「すみません、今晩は仕事です」


「明日でいいものは明日にしろ」


「そうもいきません。仕事が詰まっていますから。では、失礼いたします」


 彼はわざと丁寧に頭を下げると事務所に入って行った。田口も慌てて頭を下げて、保住に続いて事務所に入った。


 その際、ふと澤井を振り返る。澤井はさぞ怒っていると思ったからだ。しかし彼は怒るどころか、少し微笑んでいる気がした。


 ——やっぱり。澤井局長は、係長に甘い。好き勝手させて、なにも言わないんだ。


 ちょっかいを出しているように見えても、それはからかいというか、じゃれついているようにしか見えない。


 胸がザワザワした。

 澤井が保住にちょっかいを出す理由は、彼の亡くなった父親だと聞いているが、本当にそれだけなのか——?


 不安になるのは気のせいなのだろうか。


「いいのですか? 係長」


 ダンボールをテーブルに置いて、隣にいる保住を見下ろす。


「別に。お前が先約だろう。ただ、それだけの話だ」


「しかし」


 保住は笑う。


「お前なあ、やっぱり堅い! 


「な!?」


 コソコソと話していたのに、最後の言葉が他の職員にも聞こえたのだろう。渡辺たちは吹き出した。


「係長!?」


「言い慣れないんだから。そういう汚い言葉遣い! 棒読みじゃないっすか」


 谷川も突っ込む。


「そうかな? おれ的には結構イケていると思うけど」


「いやいや。言い慣れていませんって」


 矢部も大笑だった。


 ——ま、いっか。


 余計なことを考えることはよくない。なるようにしかならないのだ。そう考えることにしよう。田口はそう心に決めて、片付けを始めた。それを手伝ってくれる谷川に演奏会のことを報告しながら。

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