第13話 戦線復帰




 田口はいつもより少し早く家を出た。なんだか心が落ち着かなかったのだ。一番乗り。そう思っていたのに。どうやら、自分は一番遅かったようだ。渡辺、矢部、谷川はすでにそこにいたのだった。


 みんなが保住の帰還を心待ちにしている。そういうことだ。田口の「おはようございます」という挨拶に、三人が顔を上げた。


「おー、このクソ忙しい時に、堂々と休みを取った、神経の図太い新人君!」


 矢部は悪気はないが、思っていることを平気で口にする人だ。


「さあ、土産を差し出したまえ」


 彼はそう言ったかと思うと両手を差し出してきた。田口は地元で人気のある米せんべいの缶を差し出した。


「おう。雪割のうまいせんべいか! まあ、これで許してやるか。ねえ、渡辺さん」


 渡辺はここのところ、めっきりやつれていたが、今日は瞳の色が違う。保住が帰って来ることで、ほっとしているのだろう。彼は目を細めて笑った。


「ゆっくり休めたか?」


「無事クラス会に参加することができました。本当にありがとうございます」


 その間にも、さっそく缶の封を解いた矢部は、せんべいを口に放り込んだ。一口で食べられる大きさの小さな塩味せんべいだ。


「うまい! さすが米どころ」


 彼は谷川にそれを差し出す。


「朝からせんべいですか? ううん。これはおいしいね」


 谷川も釣られて一つ、口に放り込むと、嬉しそうに笑みを見せた。地元のものを褒められると、なんだかくすぐったい気持ちになった。田口はさっそく自分の席に腰を下ろしてパソコンを起動する。


 すると、「おはようございまーす」と保住が顔を出した。


「か、係長!!」


 渡辺も矢部も谷川も。みんなが泣きそうに目を潤ませて保住を見ていた。保住はすまなそうに頭を下げる。


「みなさん、ご迷惑をおかけしました。本日より復帰させていただきます」


「もういいんですか?」


「顔色悪いですよ」


「まだ休んでいなくて、いいのですか」


 嬉しい反面、彼の体調を気遣う言葉が飛び交うが、保住は取り合わない。


「平気です! 休んでいた分、取り返しますよ」


「係長、そんな張り切らなくても……」


「いいえ。みなさんに多大なる負担を強いたはずですから……」


 保住はリュックを放り投げると、椅子に腰を下ろす。パソコンの起動ボタンを押した後、すぐに係長決済が必要な書類の山へと手を伸ばした。これでも渡辺が必死に係長代行として、決済書類を精査していたのだが。この山は一向に減る気配がなかった。


 しかし。保住は次から次へと書類に視線を落とし、ハンコを押していく。判断が早いのは保住の能力の高さ故のこと。


 保住の仕事をしている姿を見ていた渡辺は鼻をかんだ。その瞳はまるでお父さん——。我が子を見守る優しい父親の目だった。田口はいつもの振興係に戻ったことを嬉しく思った。


 昨日まで実家で一緒の過ごしたことが昔のようだ。楽しかった数日間を思い返していると、隣にいた谷川に肘で突かれた。


「お前、朝からにやけすぎだぞ。係長が好きだからって」


「ち、違います」


「いやいや。にやけているって。わかるよ。気持ちはわかる」


 三人は、保住は田口の実家に行っていたことなど知る由もない。田口は黙って鞄から500mlのペットボトルに入ったイオン水と麦茶を取り出すと、保住の机に置いていた。


「田口。なんだこれは?」


 保住の表情が引き釣る。


「いいですか? 人間が一日に必要な水分量は2.5リットル程度。食事から1リットル以上摂取する予定ですが、あなたの場合は、絶対的に仕事中の食事量が少ない。よって、水分で摂取しなくてはいけない量は1リットル以上です。食事量も少ないし、水分も少ない。また干からびたら大変だ。しばらくの間、水分補給については、強制的に管理させてもらいます」


「お前……」


 保住だけではない。他の三人も開いた口が塞がらないのか、ポカンとしていた。


「水分は苦手だ」


「水分補給は一気にするものではありません。少しずつが肝要です。午前中一本、午後一本のペースで行きましょう」


「あ、あの……。お前なあ。おれは、だから、その——」


 タジタジな保住は珍しい。矢部と谷川は顔を見合わせて笑った。


「田口。本気モードですよ。目がマジって書いてありますもん」


「これは言うことをきいたほうが良さそうですね。係長」


 保住は大きくため息を吐くと、降参だ、とばかりに両手を広げた。


「わかった。わかった。ちゃんと飲む。だから一々うるさく言うな。面倒だろう」


「いいえ、また入院なんてごめんです! 絶対守ってもらいますからね!」


 いつも騒々しい文化課振興係が復活だ。田口がふと他の部署に目を遣ると、彼らも「一安心だね」という顔で自分たちを見ていた。やはり日常が一番だ。


 ——日常と言えば。いつものアレ。そろそろ来るか。


 そう予測した瞬間。振興係の扉が乱暴に開かれて、地の底から響く重低音が耳を劈いた。


「出てきたなら、挨拶ぐらいしろ! このバカめ!」


 そこに仁王立ちしているのは澤井だ。保住は面倒くさいとばかりにため息を吐く。


「すみません。まだ出勤されていなかったので。行くところでした」


「言い訳はいい。それより、早く来い! おれの部屋の書類をなんとかしろ」


 澤井は「ふん」と鼻を鳴らすと踵を返す。保住も彼の後を追って姿を消した。


「金曜。最悪だったんだから。係長もいない。お前もいない。澤井局長の雷が落ちっぱなしだったんだからな」


 谷川は苦笑いをした。


「おれなんていなくても、別段問題ないですよ」


「そうでもないって。結局、局長の怒りがマックスに達した時、局長室は書類がめちゃくちゃになって、誰も復元できない状態にまで落ち込んだのだった」


 矢部はドラマのナレーションのような口ぶりでそう説明した。田口は心配になった。それを片付けるのが保住の役割というわけだ。


 病み上がりなのだ。無茶は押し付けないで欲しい。そう心から願う。


「係長が来れば安泰だな。あの人の安定剤は係長だろ」


 ——澤井局長はきっと。係長を側に置いておきたいんだ。


 もしかしたら、この数日。保住がいなくて一番寂しい思いをしていたのは彼かも知れない——。

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