第12話 梅沢への帰還



 アパートに帰宅したのは、日曜日の夕方だった。古くて薄汚れたアパートの前で田口と別れた。


「荷物をお部屋まで」としつこく食い下がってくる田口。一番疲れた帰省だったことだろう。それなのに、どこまでも気遣いができる男だった。


 保住はその言葉に甘えてはいけないと思った。行く時と比べたら、嘘のようにからだが軽い。これなら、明日から仕事に戻れるだろう。


 青いSUVが走り去るのを見送ると、なぜか心が寂しくなった。今までこんな気持ちを味わったことなどなかった。


「これが田舎への帰省後に味わう寂しさか」


 小さく呟いてから、荷物を抱えて階段を登る。

退院をしたその足で田口の実家に向かったので、ここに帰ってくるのはしばらくぶりだ。


 田口と出会ってから、保住の周囲は騒々しい。今まで味わったことのない感情や経験をさせられる。


 田口との出会いは、保住の人生にかなりの影響を及ぼしているようだった。


「お礼に、果物でも送らねばならないな」


 田口の地元では果樹はやらないと聞いた。梅沢の特産品である桃を贈ろう。そう考えてから、ふとこんなことも人生で初めてかもしれない、と気がついて笑ってしまった。


 人との付き合いのない男だ。


「お帰り」


 帰宅してソファに座っていると、妹のみのりが顔を出した。


「なんだ、こんな時間に」


「なんだ、じゃないでしょう? 病み上がりで明日から仕事行く気なんだろうから、様子見に来てあげたのに」


「そうか。すまないな」


「でも、心配した程じゃなさそうね。ゆっくりできたみたいじゃない。顔色いいわよ」


 彼女は保住の荷物を解き始める。片付けを手伝ってくれるつもりなのだろう。正直、片付けは後回しくらいの話だったので助かった。保住は、みのりの様子を眺めながら笑った。


「ゆっくりはできなかったが、なかなか楽しかった。仕事復帰へのリハビリとしては素晴らしい環境だったな」


「それ、どう言う意味?」


 目を丸くするみのりに、保住は田口家の面々の話をした。一通り話を聞いた彼女は、朗らかで明るい笑い声を発する。


「あの真面目そうな田口さんが、そんな環境で育ってきたのね。面白いわねえ」


「そうだな。我が家とは大違いだ」


「家はおじいさんたちと疎遠だし。お父さんも仕事忙しかったから。いつも三人だったものね。……そうそう。おじさんにはたまに会うのよ。現場から退いたって言っても、まだまだ影響力ある人だからね。お兄ちゃんとは、お父さんのお葬式以来、会ってないから会いたいって言っていたけど」


「そうか」


 ——そうなのだな。


 家族は父と母、そしてみのりだ。家族というものは、自分が大きくなるために必要な仕組み。それくらいにしか考えていなかった自分は、なんと詰まらない時間を過ごしてきたのだろうか。


 今回、田口家を見てきて、保住は生まれて初めて『家族とはいいものなのかもしれない』と思っていたのだ。


「あの人、……元気なのかな?」


 保住はもう顔も定かではない祖父を思う。みのりは荷物を整理する手を止めて笑みを浮かべた。


「すっごく元気よ。もう90なのにね。相変わらずの偏屈ぶりみたいで、おじさんも苦労しているみたい。お父さんみたいに、さっさと家を飛び出せば良かったって」


「そうか。元気ならいい」


 祖父は、父親の葬儀にも顔を出さなかった。保住は祖父が苦手だ。次に会うときは棺桶で寝ている時の対面だろうな、などと考えていた自分も、もしかしたら相当な頑固者なのかもしれない。


「頑固は血筋か」


「なによ。それ? ねえ、それにしても、なんだか珍しいことばかりで嬉しいわ」


「どういうことだ?」


 みのりは荷物のせいを終えたのか、保住の隣に腰を下ろした。


「お兄ちゃんって友達もいないじゃない。田口さんは部下かも知れないけど、年も近いし。友達みたいでいいじゃない?」


「そうだろうか」


「そうよ! こんなこと奇跡だわ」


「これは、澤井が仕掛けてきたことで……」


「とかなんとか言って。楽しんできたんでしょう? 明日は、台風でも来るんじゃないかしら」


「おい」


「それに澤井のおじ様が、そんなにお兄ちゃんに優しいなんて、気味が悪いわね」


 みのりは澤井の歪んだ感情を知らない。ただの気難しい父親の旧友。くらいにしか思っていないだろう。


 ——ただし。今回ばかりは、借りができてしまった。後から脅されないといいが。


「吉岡のおじ様のほうが、どっちかと言えば人当たりいいから好きだけど、私は、澤井のおじ様もそんなに嫌いじゃないわ。まあ、お兄ちゃんは嫌いだろうけど」


「おれは勘弁だ。四六時中一緒にいてみろ。流石に嫌になるぞ」


「ああいうパワハラ上司はよくいるわよ。悪いけど、役所より銀行のほうがタチが悪いんだからね」


 お気楽でのんびりしているみのりも、それなりの悩みはあるようだ。保住は「すまないな」と謝罪をした。


「なに謝ってるの? へんなお兄ちゃん。なんだか変わったね」


「そうだろうか」


 保住は首を傾げると、みのりはおかしそうに笑った。


「いいじゃない。うん! いい」


「え?」


「なんでもない! 元気そうなのを確認したし。そろそろ帰るわ。明日から頑張ってね」


「遅れを取り戻さなくては」


「それは気負いすぎ。お兄ちゃんがいなくても、仕事は回っていく〜。自意識過剰はやめて、ゆる〜くやってきなさいよ」


 みのりは朗らかに笑った。彼女に救われることも多い。年下で守るべき存在。そう認識していたのだが。彼女の方が社会を知っているのかも知れない。


「じゃあね!」

 

 明日の朝ごはんをセットして、みのりは帰っていった。長く感じられた熱中症事件もやっと収束だ。明日からは日常に戻れる。保住は、そんなことを考えながらベッドに寝転がった。


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