第10話 恋心


 午後。再び農作業の手伝いをして帰宅をした田口は、芽衣の部屋から出てきた保住の鉢合わせになった。


「勉強、終わりましたか? 芽衣ちゃんに教えてくれるのはありがたいのとですけど。お疲れのようです。無茶してくれますね」


「すまない。つい、人に教えるとなると仕事のような感じになって、きりがないな」


 せっかく血色が戻ってきた顔色は、疲労で蒼白になっているようだ。田口はため息を吐いた。保住という男は、自己管理がてんで駄目。澤井の言葉通りだったからだ。


「係長が中学生の女子と気が合うなんて、知りませんでしたよ」


 田口はそう呟いてからはったとした。嫌味だ。これではまるで、自分が芽衣に嫉妬しているみたいじゃないか。田口は言葉を濁し、そっと保住を見つめる。


 しかし彼はそんな細かいところまで配慮できるほど本調子ではない。田口の部屋に入るなり、敷きっぱなしになっている布団にごろりと横になった。


「すまない。休ませてくれ」


「構いませんよ。おれに気を遣う必要はありません」


 横になって一息つくと、彼は笑う。


「大した子だ」


「芽依ちゃんは、昔から頭の回転は速い子でした。機転が効くし、気配りもできる子です。だからこそ、田舎の雪割にはそぐわないんだろうなって思ってはいましたが。気がついてやれていませんでした。いつまでも子どもだと思っていたのに。もう将来ことで悩みがあるなんて」


「今時の子どもは情報過多。悩みも低年齢化しているのだろうな」


 保住は、右腕を額に当てて目を閉じる。


「感受性が豊かな、それでいて勘のいい子だ。なぜ勉強をして東大に入ったのかと問われたが、答えられなかった。『おれは勉強すること自体が目的だったからな。夢なんか一つもなかった。勉強が楽しかった。それだけだ』としか答えられない」


 保住は自嘲気味に笑った。


「おれの人生は、なんの考えもなく進んできているのだということを突き付けられるな」


「そうでしょうか。そうは見えませんけど」


「いやいや。それしかないだろう? このていたらくだ」


 能力を持て余している、という言葉が適切なのだろうか。きっと、梅沢の一職員に収まるような男ではないのだろうけど、でも——ここにいてくれるから。自分は、彼と出会えることができたのではないか。


「勉強は半分だ。後は勉強の仕方を少し伝えた。優秀な子だ。すぐに覚える。まるでお前みたいだな……」


「え!」


 田口は驚いて保住を見下ろした。彼は口元を緩めて笑った。


「あの子はお前そっくりだな。まるでお前に仕事を教えている時みたいで楽しかった。だからつい、無理をしたらしい。悪いが休むぞ」


「え! 係長、あの! おれなんてお荷物で」


「なにを言う。お前は優秀な、おれの自慢の部下だ」


 彼は直ぐに寝息を立て始めた。田口は保住のそばに寄って、彼の顔を覗き込んだ。夢現ゆめうつつの発言に信憑性は感じられないが、それでも嬉しい言葉だ。田口はそっと笑む。


「係長……いや。保住さん。ありがとうございます」


 ふと伸ばした手が彼の前髪に係る。そして、はっとして手を引っ込めた。


「な! おれはなにをしている?」


 触れてしまった右手を左手で抑えこんで、ドキドキとする鼓動を感じた。


『触れたい』


 そう。触れたい。彼に触れてみたい。保住を軽々と抱きあげた澤井が羨ましい。


 田口は喉を鳴らし、それからもう一度保住へと手を伸ばす。骨ばった輪郭。顎のラインを指でなぞる。ひんやりとした感触に、心臓が高鳴る。


 軽く開かれた唇が、まるで田口を誘っているかのようにも見える。


「なにを考えている!」と叱責してくる自分と、「触れてしまえ」と誘惑してくる自分がいる。こうして触れても微動だにしないのだ。少しくらいいいではないか。そう言い訳をつける自分もいる。


 保住の顔の脇に手をつき、彼の鼻先に自分の鼻を近づけてみた。保住はお日様の匂いがした。犬が臭いを確かめるように。くんくんと鼻を鳴らし、それからそっと彼の唇に自分の唇を重ねた。


 しかし。途端に田口は我に返った。思い切り体をのけぞらせ、そして尻餅をついた。


 ——おれは……、なんてことを!


 この数ヶ月、彼と出会ってからの自分は、それ以前の自分とは違った。保住から視線を外すことができない。


 ——男に口付けだって!? おれは……いったい、どうしたというのだ!


「まるで、まるでこれでは……、で、おかしいじゃないか」


 保住は上司であり、同性であり、恋愛の対象になんてなるはずがないのに。


 澤井といる彼。

 艶やかな笑みを見せる彼。


 保住の存在を認めるだけで心臓が速まる。ここのところの田口は、寝ても覚めても保住のことで頭がいっぱいなのだ。


 今回の件もそうだ。澤井から提案された時。即同意をした。保住との時間を確保できるなら。彼を回復させられるのは、自分しかいない。そう自負した。


 ——共に時間を過ごしたい。貴方の笑顔を見ていたい。そして……貴方を守りたい。


 いいや。それだけではない。自分は……——触れてみたい。


 ——貴方に触れたい。ああ、おれはどうにかなってしまったのか。おかしい。変だ!


 頭が痛む。苦しいのはなぜなのだろう。ぎゅっと拳を握りしめて、田口は保住を見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る