第5話 ちっぽけな想い



 保住は田口をしげしげと見つめた。田口であって田口ではないように感じられたのだ。職場でのワイシャツ姿とは違い、さわやかなミントブルーのTシャツにデニム姿だからだろうか。保住の視線を感じ取ったのか、田口は居心地が悪るそうに「なんです?」と言った。


 保住は、はったとしてから首を横に振る。


「いや。悪い。いつもの田口は、堅物だからな。私服になると、ますます中学生に見えるな」


「中学生? ……えっ!? しかも、って、普段も中学生に見えているということなのでしょうか」


 田口の反応は面白い。保住は愉快な気持ちになって笑い出した。笑われた田口は最初、不本意そうな顔をしていたが、怒る気にもならなかったようだ。大きくため息を吐くと、「係長って友達いないんじゃないですか」と言って笑った。


「よくわかったな!」


 保住は、涙を拭いてから大きく頷いた。


「こんな調子だからな。いるわけがない!」


 保住は断言した。すると、田口は「ぷ」っと吹き出した。


「もう、本当に。勘弁してくださいよ。係長は変わってますよ」


「変わり者のお前には、言われたくないな」


「おれも変わり者ですか。そうは思いませんでしたが……。市役所での扱いを見ると、相当変わっているのかもしれませんね」


「人は、自分の価値観で生きているものだ。何が普通で何が普通ではないか。線引きをできる者など存在しないものだが。大多数の人間がいる場所からはみ出した奴が、変わり者扱いをされるだけの話だろう? おれは相当変わり者扱いをされている。お前も、生きにくさを感じたのであれば、役所内では変わり者に分類されるのだろうな」


 田口は苦笑した。


「前職では、みんなに馴染めませんでした。係長は、部下や上司の悪口ばかりです。みんなが、彼に気に入られるようとしているのがよくわかりました。けれど、おれはできなかったです。おれは上司に気に入られるためにここにいるわけではなくて。おれは——」


「市民のためにここにある」


 保住の言葉に田口の表情がパッと明るくなった。


「そうです。仲良しごっこするために仕事をしているのではありません」


 保住は田口という男をまじまじと見つめた。一目見た時から、一本筋が通った、融通の効かない男だと思った。集団や組織では生きにくいだろう。きっと苦労してきたに違いない。そう思っていたのだ。


 しかしそれは、保住にとったら好都合なことでもあった。一本筋が通った男だからこそ、育てれば伸びる。そう確信していたからだ。


「田口。おれは年下の部下を持つのは初めてで、戸惑っていた。仲良くできるのか、きちんと教育できるのか不安だった」


 田口は目を丸くしたかと思うと、目を細めた。


「係長でも、そんなことを思うのですか?」


「思う」


「意外です」


「おれはこう見えても繊細なんだぞ」


 田口の目は「どこが?」と言っている。大半の人間は同じ反応を示す。保住は昔から要領がよく、頭も切れる男だった。同級生たちが1日かけてこなすものを、一時間もせずに成し得ることができた。


 周囲の人間たちは保住を、どこか別の世界の住人のように扱った。保住には人間の心など持ち合わせていない、くらいに思っているのかもしれない。しかし。本質はそうではない。


 田口は「確かに」と意外な口ぶりで言った。


「係長は周囲に気を使いすぎですよ。局長の面倒を見るのだって大変でしょうに。渡辺さんや、矢部さん、谷川さんたちが仕事をしやすいように配慮してくれて。仕舞いにはお荷物のおれの面倒まで見てくれる。ご自分のお仕事は、みんなが帰ってから。疲れます。だから熱中症にもなるんです。もっとご自分を大切にしてください」


 保住は言葉を失い、ただ黙って田口を見つめていた。たった数ヶ月の間に。田口という男は保住の本質に触れようとしてくるのか。保住が誰にも見せないようにしている部分を。この男は。


「手がかかる部下ですみません。おれ、少しでも係長の負担にならないように、頑張りますから」


「お前のせいではない。おれが下手なのだ。自分一人で行動するのは楽だが、人を上手く使うということは難しい」


 薄暗い部屋で、目の前に座る田口という男。素直でまっすぐ。まるでスポンジみたいに、色々なことを吸収していく。その内、すぐに追い抜かされそうだ。保住はそう思った。


 ——そこまで褒めると、後で語弊ごへいがあるかも知れないから、言わないが。期待以上の部下だ。


「年の近い上司なんて、やりにくいだろう。すまないな。気を遣わせる」


「そんなことはありません。まあ、正直に言えば、最初は面食らいましたけれど……。おれは係長から学びたいことがたくさんあるのです。気になさらないでください。係長は係長の好きにしていただければ。……ついていきます」


 田口の誠実な瞳は、保住の心に光をもたらすような気がした。市役所という組織の中で疲弊しているのは自分だ。保住は口元を緩めた。


「お前は素直な男だな。お前のご両親は愛情深い方たちだ。ここに来て、お前は大切にされてきたということがよくわかる」


「そうでしょうか。家族が多いと、思いも増えるものです。家族関係って色々なんですよ。田口家も」


 保住は田口の話に耳を傾けた。


「地元では期待されている豪農家です。父も地域を取りまとめる役をやっている内に、町議会議員になりました」


「素晴らしいお父さんだ」


「大したことないです。こんな小さな町ですから……」


「そんなことはない!」


 保住が急に大きな声を出したので、田口はびっくりたのか、キョトンとした顔をした。


「大なり小なりは関係ない。地元の為に尽力されている素晴らしいお父さんだ。なかなか出来ないことだぞ? 好かれる仕事ではない」


 ——町議など損な役回りだからな。


 大概、地元の人たちに推されて議員になったものの、なったらなったで「あれをしてくれ」「これをやってくれ」とみんなそれぞれ勝手なことばかり言うものだ。そして、出来ないと陰口を叩かれる。全くもって損な役回りなはずだ。田口の父はそれを担っているのだ。並大抵のことではない。


「何度も帰ってくるように言われています。父や兄を手伝えって。役場に勤めればいいじゃないかと」


「確かに。その選択肢は妥当かもしれないな。梅沢に縁もゆかりもないのだから。——しかし。お前はそれを選ばないのだな」


「地元は好きだけど、ここに留まるのは、なんか少し違う気がして」


「違う?」


「う~ん……」


 だから言葉をどう選んだらいいのか悩んでいるのか、田口は少し言葉を切った。


「ここにいれば、きっと。何一つ不自由はないと思うんです。けれど。おれはそれではいけない気がするんです」


「一人でやってみたいのか?」


 保住の呟きに、田口は頷いた。


「そうかも知れません。自分の力を試したい」


「試すだけか?」


「いや。成功させたい」


「成功?」


「なにがゴールなのかわかりません。でもおれは自分の力で誰からの助力もなく、なにかを成し遂げたいって思うんです」


 田口は答えを見つけたのか。目を輝かせた。


「おれ。係長と同じ部署になれて、良かったです」


「なにを急に……?」


「仕事が楽しくなりました。色々と教えてもらいたいことがたくさんあります。係長が入院してしまって、本当に心配しました。これからもよろしくお願いします。お荷物にならないように頑張ります!」


「随分、照れくさいことをストレートに言ってくれる」


 驚いた。彼が自分を毛嫌いしていることは知っていたからだ。それなのに。田口は自分の存在自体をも昇華して、受け入れようとしているということだ。


 保住は笑った。田口という男は、保住は思っている以上に、器が大きいのかも知れない。そこで田口が、突然に顔を赤くした。


「からかわないでくださいよ!」


「からかってはいないのだが……」


「もう、いいから飯を食べてください」


「しかし、」


 そんな押し問答をしていると、障子の向こうから鈴の音のように通る女性の声がした。


「お取り込み中のようだけど、銀ちゃん、お食事どう?」


 そっと障子が開き、顔を出したのは中学生くらいの女性だった。骨太な田口家とは違い、線の細い今時の女子中学生。田口は彼女に優しい声色で返答した。


「おれが片付けるからいいって母さんに言ったのに。悪いね。芽衣めいちゃん」


 田口の母親に様子を見てくるように言われたのだろう。彼女は恥ずかしそうに田口と保住を見た。


「すっかりおしゃべりに夢中になっていたな。申しわけない」


 保住がそう言って笑顔を見せると、彼女は顔を赤くして障子を閉めた。


「気を悪くするようなことを言っただろうか?」


 保住は首を傾げる。田口は呆れた顔をしていた。


「なんだ。なぜ彼女は顔を赤くするのだ」


「係長は知らなくていいことです。それよりも早く。召しあがってください」


 ——年頃の娘の気持ちはわからないものだが。このがさつな男に理解できるというのか。

 

 保住は首を傾げてしまうが、目の前のおにぎりから海苔のいい香りが漂っていることに気が付いた。食物を見て、「いい匂いだ」と思うのだ。少しは食欲がわいてきている証拠だ。


「話をしたら少し気分がいい。食べてみよう」


 保住はそっと手を伸ばして、おにぎりを持ち上げた。








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