第4話 逃れられない柵(しがらみ)

夢を見ていた。父親の夢だ。


 家にいる時は、必ずと言っていいほど、書斎の窓辺の椅子に座って本を読んでいた。


 時折、本から視線を外し、庭を眺めている彼の横顔を見て、子供心に声をかけていいものかどうか思案したことを思い出していた。


 ——お父さん。


 しかし。どんなに小さい声で呟いても、彼はいつでも振り向いてくれる。そして、両手を広げて自分を迎え入れてくれるのだ。


『おいで。尚貴なおたか


 手を伸ばすとすぐに抱きしめてもらえるのに……。どうして、子どもの自分は、躊躇ちゅうちょしてしまうのだろう。


 父親の手の温もりが、いつのまにか澤井の手に変わる。


『お前は父親に似すぎている。ふとあいつがそこにいるような気持ちにさせられる』


 澤井の口元が視界に入る。


 ——違う。父ではない。おれは父ではない。おれは……父のことはよく知らないのだ。


 父親が見てきた世界。保住が今見ている世界は同じだというのだろうか。死んだものから答えを聞くことはできない。

 

 ふと、田口とそっくりな、彼の父親の姿が脳裏をかすめた。彼は口数少ない男だが、自分の息子との再会を喜んでいた。目を細め、笑みを浮かべて。


 多くを語らないからこそ、彼の喜びが、体から滲み出てきているような気がしてならなかった。


 ——父親とはそういうものか? 


 保住はもがいている。澤井もそうだ。他の職員たちもそうだ。こうなることは予測していたくせに。父親の影がついて纏う。自分は父親から離れたかったはずなのに。そうではなかったのだろうか。


 半分、覚醒しているのだ。目を開けたくないだけ。途中からは、夢ではない。自分の思考の産物だ。


 瞼を持ち上げると、見慣れない木の天井が見えた。辺りは薄暗い。大きく取ってある障子から青白い光が洩れていた。


「障子だと、こんなにも明るいものなのか」


 顔だけを動かし、そっと障子を眺めた。部屋の一角に灯っている行灯の光が、温かい橙色だいだいいろでその場を優しく照らしていた。


「ここは」


 田口の実家だ。寝ている間に一瞬現実を見失ったのだ。


 田口家にやってきて、早速眠り込んだらしい。今は一体何時になった?


 クーラーもないのに肌寒いくらいヒンヤリとしていた。梅沢とは、こんなにも違うものなのだろうか。


 遠くから賑やかな声が聞こえていた。からだを動かすことも面倒な保住は、じっとそのままの姿勢でいた。


 すると、障子戸が開く音がして「入ります。係長」と田口の声が聞こえた。彼は入ってくるなり、「起こしちゃいましたね」と笑った。


「起きていた。すまない。寝てばっかりで」


「そうしてもらうために、来てもらったんじゃないですか」


 田口は手に持っていたお盆を、そばのちゃぶ台に置いた。


「食べられますか。母さんが具合の悪いときこそ、味噌汁とおにぎりって」


「それは美味しそうだ——が、全部食べられる自信がない。口をつけたら悪い」


「そう言うと思いました。大丈夫です。後片付けはおれがやるので。遠慮しないで残してください。少しでも腹に入れないと。身体が日常に戻れませんよ」


 田口はそう言うと、お盆を差し出した。




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