第3話 田口家
午後七時を過ぎて、やっと日が落ちてきた。田舎の夕暮れとは、なんと物寂しいものだろうか。梅沢という都会に慣れ過ぎた。田口は縁側から人の通りのない風景を眺めてきた。
すると、大きなワンボックスカーが敷地内に入ってきた。兄の
「銀太。帰ってきたのが」
運転席から飛び降りた兄は、何ひとつ変わりがなかった。
「おかえり」
「で? お客さんは?」
彼も保住に興味津々だ。
彼は地元の農業協同組合に務めていた。今年三十八歳。年が離れている一番上の兄だった。どんな部署にいるのか詳しいことは聞いていないが、課長の席に座っているとのことだ。
彼の本業は農協職員だが、稼業を手伝ったり、父親の政治活動の手伝いもしている。活発で社交的、面倒見もよく、田口のことを心配してマメに電話をくれる兄だ。
その大柄な兄の後ろから、茶髪のボブヘアの痩せている女性が顔を出した。妻の真樹だ。
金臣とは、農業大学時代に知り合ったという。利発で、頭のいい女性だ。地元の農業試験場に勤務している。
大きな瞳を瞬かせて、彼女は周囲を伺った。
「銀ちゃん! で? 都会のおじさんは?」
そこに母親が通りかかる。彼女は「銀太、ご飯よ」と言ったかと思うと、真樹を見た。
「それが、おじさんじゃなかったのよ」
「え?」
「銀太とそう年の変わらない、可愛い男の子」
「男の子って」
田口は自室を気にする。田舎の人たちは、ともかく声が大きい。保住に聞こえてはいないかと不安になったのだ。
しかし田口の部屋の方からは、なんの物音も聞こえなかった。田口は胸を撫で下ろす。しかし、それも束の間のこと。すぐに真樹が大きな声を上げた。
「ええ!? 剥げてるおっさんじゃないの? やだ。どうしよう。おっさんでも緊張しちゃうのに、そんな若い人だったなんて」
こんな調子だから、田口の母親とは気が合わない。いや同じようなタイプだからこそ、ぶつかるのだ、と田口は見ている。
嫁姑問題は、田口家でも当然に起こっていることだ。母親と嫁のやりとりを眺めていると、大騒ぎになっている大人たちを冷ややかな目で見ながら、年頃の女の子が車から降りてきた。
彼女は呆れたように両親に一瞥をくれたかと思うと、玄関へと歩みを進めた。
「おかえり、
ジャージ姿に、黒髪を二つに縛っている彼女は、くりんとした瞳を細めて、田口を見た。
「おかえり。銀ちゃん」
「部活、忙しいかい?」
「うん」
彼女は小さく頷くと、さっさと玄関に消えていった。
「なんだか芽依ちゃん、大人びたね」
田口が首を傾げると、母親は笑った。
「芽依も思春期でしょう。最近は、ちっとも口きかないのよ」
「へ~……」
芽依は金臣の長女。今年、中学二年生の十四歳だ。部活は水泳部。田口が自宅にいる頃は、よく懐いてくれて、一緒に遊びに行ったものだが。しばらく見ない間に、すっかり女性らしくなってしまった。
芽依が姿を消した玄関に視線を向けていると、泥だらけの小学生が二人が、車から飛び出してきた。
「おー! 銀太~! おかえり」
「銀太じゃん!」
「こら! おじさんを呼び捨てするな!」
真樹に怒られても、二人は笑っていた。すぐさま、縁側のところにかけてくると、リュックを乱暴に放り投げて、そこから家に上がり込んだ。
長男の
夏休み中は、近くの学童保育に行く。田口の母親たちも夏は繁忙期で忙しいからだ。金臣夫婦が共働きとはいえ、祖父母である田口の両親たちがいる。梅沢では、学童保育の対象にはならないはずだが。
こうして農家の繁忙期を考慮して、子供たちを預けられるシステム。子育てを売りにしていることだけのことはある。
梅沢の規模では困難な施策も、小さいからこそ叶う。田口は改めて行政の業務について思慮を深めた。
「大きくなったな。二人とも」
二人は、泥だらけのまま、田口にタックルをしたり、背中をバンバン叩いたりして戯れてきた。嬉しくて大騒ぎなのだろう。
「静かにしな! 係長さんは体調が悪いんだからね! さっさと手を洗って、ご飯食べるから、あっちに行きな」
この賑やかさは、田口がいた頃から健在だ。これでは保住を落ち着いて休ませられない。田口は大きくため息を吐いた。彼の隣にいた母親は済まなそうな顔をした。
「そろそろご飯だけど。どうする? 係長さん、じゃなくて、えっと」
「保住さん」
「そうそう」
「わ~、早く会いたいわ」
「お前ねえ」
妻が目をキラキラさせているのが面白くないのか、金臣はブウブウと頬を膨らませた。
「後で行く」
田口は母親と別れ、自室に戻った。うるさいのはいつものこと。騒々しい環境で育ってきた田口にしてみれば、心落ち着くものだ。
実家に帰ってきたと、やっと実感が湧いた。ほっこりした気持ちのまま障子戸を引いた。
「係長、入りますよ」
そっと中を覗き込むと、保住は眠り込んでいた。田口が敷いた布団の上で、彼はうつ伏せになって、まるで死んだように眠っていたのだ。
人間は、眠りで体を回復する。眠りを欲しているということは、まだまだ本調子ではないということ。保住には休息が必要だ。
すやすやと寝息を立てている保住を、とても起こす気にはなれなかった。
「今は食事より睡眠ですね」
そばによって、腰を下ろす。
蒼白な顔色。長いまつ毛が震えていた。夢でも見ているに違いない。汗ばんで張り付いている髪を、そっと指でかきあげる。
「係長……」
田口が触れても、彼が目を覚ます気配はなかった。後で食べるものをなにか持ってくればいいだろう。
早めに夕食を終えて帰ってこよう。そう思いつつ、田口は久しぶりの我が家の晩餐に向かった。
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