第9話 綺麗な人
来週から保住が復帰するということがわかると、振興係は大騒ぎになった。嬉しい反面、山積みになった仕事を片付けておかなくてはいけないからだ。
明後日の金曜日。夏休み休暇をもらうため、先輩たちの仕事を手伝いながらの残業だった。しかし。時計の針を見ると、夜の七時を回ろうとしているところだった。
熊谷医院の面会時間は夕方の四時半から九時まで。田口は意を決して立ち上がる。他の三人は、自分の仕事で手一杯のようで、田口のことになどかまけている暇はないらしい。
「すぐに戻ります」と言って出た田口を、見送ってくれた。
田口は職員玄関から外に出ると、先日足を運んだ病院へと向かった。急に思い立ったので、見舞いの品がなかった。しかし、売店で有り合わせの菓子を買っても意味がないだろう。どちらにせよ、保住は菓子を食べる様子も見受けられなかったからだ。
田口は熊谷医院の西口に回り込み、先日同様にインタホンを押した。
「田口と申します。あの。保住……さんに。面会をしたいのですが」
一度断られているせいで変に構えてしまうが、今日はあっさりと中に通してもらえた。扉を開けると、すぐに靴の履き替えを行うスペースになっている。戸惑いながらも下足を棚にしまい、赤い病院用スリッパを履いた。
廊下に表示している案内通りに進んでいくと、古ぼけたエレベーターがあった。
ボタンは三階までの表示しかない。『詰所』と書かれている紙が貼ってあるニ階ボタンを押すと、古びたエレベーターが動き出す。ガコンガコンと妙に大きな機械音が耳についた。
二階に降りると、目の前の小さな部屋から、五十代くらいの白衣姿の女性が顔を出した。
「右側の一番奥の部屋ですよ。保住さんの病室」
彼女に会釈をしてから、田口は右に歩いて行った。建物は、エレベーターと詰所を中心に廊下が左右に伸びていた。突き当たりを目視できるくらいなので、さほど広くはない。
静かに歩みを進めると、空いている病室も多いが、開いているドアの隙間から見えるのは、高齢者ばかりだった。
どんな顔で会えばいいのだろうか——?
そんなことを考えながら、目的の病室前に来ると、中から保住の声が聞こえてきた。彼の声を耳にするのは一週間ぶり。なんだか懐かしいような、嬉しいような。ドキドキと鼓動が激しくなる。柄にもなく緊張しているようだった。
彼は誰かと会話しているようだ。先客がいるのだろうか、それとも病院のスタッフなのだろうか。思い悩むがこのままいても仕方がない。ここまで来て、方向転換をして帰るなんて問題外だ。
田口は深呼吸をしてから、扉をノックした。すると中の会話は止み、女性の声が聞こえた。
「どうぞ」
——女性? 相手は女性なのか?
「失礼します」
おずおずと顔を出すと、中には若い女性がいた。まずいとろに出食わしてしまったようだ。
——まさか、彼女?
白いシフォンのブラウスに、紺色のスカート。黒いロングヘア。白い顔色に、薄ピンクの唇はよく映える。漆黒の瞳は、どこか保住を彷彿とさせた。
「すみません、お取り込み中なのに……」
女性は保住に視線をやる。知り合いか? と問いたげだ。その仕草のおかげで、初めて保住が視界に入る。彼は白緑色の病衣をまとっていた。
——痩せているのに、さらに痩せた? いや。やつれたというべきか。
普段から蒼白な顔色は、ますます具合が悪そうだった。
「田口か。お前が来てくれるなんて、嬉しいぞ」
彼は八重歯を見せて笑った。
「お加減はいかがですか。明日、退院と聞きました」
「澤井に聞いたのか」
「はい」
点滴が繋がっている左手を眺めて、彼は目を細める。
「今回ばかりは、あの人に助けてもらった」
「今回ばかりは?」
そこにいた女性は「まあ!」と声を上げた。
「今回だけではないでしょう?」
「お前は黙っていろ」
「また! 偉そうに。みーんなに迷惑かけ通しじゃないの。職場の方、えっと……」
彼女は田口を見る。「田口だ」と保住が紹介したので、田口は頭を下げた。すると女性は「だから」と続ける。
「田口さんも顔色悪いわよ。皺寄せが皆さんにきていると言うことでしょう?」
「お前は本当にうるさいな! まったく。それより田口。なにか話題を持ってきたのだろうな?」
保住は蒼白な顔色をしているくせに、瞳を輝かせる。職場の話を聞きたいのだろう。
「今日は……。局長から頼まれごとをされました」
田口は女性を見る。田口の意向を汲み取ったのか、彼女は朗らかに笑った。
「私のことは気になさらずにどうぞ。ちょっと飲み物買ってくるわ」
出て行く女性を見送る。艶やかな黒髪が揺れて、いい匂いがした。随分親しい感じだと思ったら。田口は胸がチクチクした。
——恋人なのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます