第17話 都会猫の苦悩



 保住が入庁した頃、父はすでにこの世にはいなかった。彼がどんな市役所ライフを送っていたのか。保住にはわからないことだらけだった。


 唯一わかっていたことは、職場の人間たちが、毎晩のように保住家にやってきていたということ。


 夜遅くまで、我が家に知らない大人たちが集まり、酒を飲みながら難しい話をしていたかと思うと、笑い合っている様子が頭から離れない。


 元々、寡黙な人だ。在宅している時は、自室で本を読んでばかりいた。なのに。職場の人たちと笑い合う彼は新鮮に感じられたのだ。


 それと比べて、澤井は真逆なタイプだった。新人の頃から、彼のことは知っているが、何せ性格が捻じ曲がっている。


 彼の取り巻きたちは、彼に何か弱みでも握られているのではないかと思うくらいに、怯えている。澤井と対等に話ができる人間を一人しか知らない。


 そうだ。あの人だけ。中庭のベンチに寄りかかり、ミネラルウォーターをあおっていると、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。


「保住。久しぶりだね。どう? 調子」


 ひょろりと長身の男性。綺麗な白髪交じりの髪を切り揃え、人好きのする笑顔を浮かべた男は、「やあ」と片手を挙げた。


「吉岡部長」


「なんだ。顔色が悪いみたいだね」


「二日酔いです」


「珍しいね。仕事の鬼の保住がね。二日酔い?」


「いつものことです。揶揄わないでくださいよ。嫌味です」


 吉岡は「そう怒らないで」と笑ってみせる。大人の余裕というやつだ。保住など、まるで相手にされていないようだ。


 吉岡は、保住の父親が一番信頼していた人物だ。

 保住の自宅にもよく遊びに来ていたし、父親の臨終の場にも立ち会った。父親が亡くなった後も、世間知らずの母親の良き相談相手にもなってくれている。


 大学に通う為、家を離れていた保住にしたら、あまり馴染みはないが、妹のみのりは吉岡に懐いているようだった。


 父親が死んでから、彼が父親代わりのような立ち位置にいたせいかもしれない。それだけ彼は、父親亡き後に自分たちに尽力してくれているからだ。かく言う自分も、こうして好き勝手させてもらっているのは彼の後ろ盾があるからとも言える。


「澤井に、ちょっかいをかけられているみたいだね」


 昨日の今日だ。さすがの保住も動揺を隠せない。吉岡が昨日の一件を知るはずもないことなのに。言葉に詰まっている保住を見て、吉岡は心配そうな顔をした。


「なにかあった?」


「いつものことです」


「仕事から逸脱していることが多いだろう。澤井さんの要望は」


「……大丈夫です。あれでも、部下には気を使う人ですから」


「そうは思えないけれど。僕は心配だよ。澤井の保住さんへの執着はすごいからね。保住さんがいなくなって、その矛先がキミに向いているのではないかと心配しているのだよ」


 吉岡はシワが深い目尻を下げて、保住を見ていた。


「ありがとうございます。困ったことがありましたら、必ずご相談いたします」


「そう。ならいいけれど。ああ、時間だね。部長職って分刻みのスケジュールなんだよ。嫌だね。僕は現場が好きだ。こんな管理職なんてバカみたいな役職だね」


「部長職をバカみたいな役職だなんて。吉岡部長くらいですね」


「そう? 褒められているみたいで嬉しいね。またね。保住。今度はゆっくり飲みに行こうね」


 吉岡はそう言うと手を振って立ち去った。彼の姿が消えると、保住は大きくため息をついた。


 ——疲れた。


 なにをするにも父親の影響は大きい。吉岡はいい人だ。わかっている。だが、それは父親がいたからこその関係性だ。素直に一人の人間として見てもらえているのか疑問。自分の力ではない。


 ——期待の新星だなんて笑わせる。結局は、親の七光りだ。


 そんなこと気にしなければいいのに。そんなことを乗り越えるために同じ職種に就いたわけではないのに。嫌になる。


「田口……」


 ふと田口の顔が思い浮かんだ。

 まっすぐに向けられる彼の視線は、保住には痛いくらい突き刺さった。田口の視線を見ていればわかる。自分への期待。そんな素晴らしい人間ではないのだ。薄汚れたちっぽけな男。父親の存在を乗り越えられないような、ダメな奴。そして、そんな事に拘っているようなクズだ。


「きついな」


 否応なしに色々なことに向き合わされていく。精神的にきつい立場だ。


「昇進なんてするもんじゃないな」


 保住は自嘲するように笑い、ミネラルウォーターをあおった。

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