第16話 最悪の理由



「お前は父親に似すぎている。ふとあいつがそこにいるような気持ちにさせられる」


 視界に入る和室の天井と、澤井の顔に目眩めまいがした。酔いが回っているのだろう。目元が痙攣けいれんしているのが自分でもわかる。現実から逃げたいせいか、そういった自身の体の変化に意識が向いた。


「しかし、黒子ほくろの位置が違うな」


 彼はそう言うと、人差し指で保住の左目尻に触れた。それから、「ここだ」と右の口元に触れた。


 人に触れられるのは、好きではない。好きなこと以外には全く無頓着なダメな人間だ。人生の中で、不本意な人間と関係を持ったことが何度かある。


 面倒だからだ。いちいち細かいことで揉めたり、ああだこうだと言い合ったりするのが面倒なのだ。


 ただ黙って、その場をやり過ごせばいい。そう割り切れば、どんなことだって、へっちゃらだったのだ。


 だが。澤井は別だ。保住はじっと彼を見据えて尋ねた。


「澤井さんは、父のなんですか?」


「同期だ」


「それだけですか?」


「それだけだ」


 澤井は表情を変えることなく、じっと保住の瞳を覗き込むように見据えていた。


「本当に?」


そうだろう」


「では、澤井さんからしたら、どうなんです?」


 ごつごつした澤井の指が保住の顎をなぞる。澤井の瞳は自分を見ているようで見ていない。保住を通して、別な人間……そう、きっと父親を見ているに違いないと理解できた。


「そうだな。特別だな」


「男同士ですけど」


「関係ない」


「あなたは既婚ではないですか。父も然りです」


「関係ない」


 こんなことになるとは思いもよらなった。そばに転がっている日本酒の瓶が目に入る。随分と飲んだ。澤井も、自分も。


 澤井は酔っているのだ。遥か昔のことを思い出して、なにかに酔いしれているのだ。


「酔っていますよ。澤井さん。こんなこと……」


 澤井の腕を払おうとすると、逆にその手首を捕まえられる。


「つ」


 床に張り付けられるように抑え込まれると、さすがに嫌な気持ちになった。


「おれは、父ではありません」


「未練がある」


「だからって、代わりはしません」


 酔いで据わっている視線は熱を帯びていて、本気な気がして怖い。だが彼から目を離すことはしない。じっとその視線を見返すと、彼は軽く笑ってから保住の上から退いた。


「ふ、お前でもそんな怯えた顔をするのだな」


「澤井さん……」


「お前には欲情せんわ。お前はあいつとは違う」


「それは良かった」


「お前の父がどうこうではない。お前はお前だ」


 保住はからだを起こす。澤井は保住を見てはいなかった。彼はただ、じっと畳を見下ろしているばかり。


 保住はそばにあった鞄を取り上げた。


「帰ります」


「送っていく」


「結構です」


「そう、へそを曲げるな。うぶな女でもあるまいし。少し触れただけではないか」


 ——冗談じゃない。どこが少しだ! 人の上に馬乗りになっておいて。


 澤井には敵わない。上手。上手。彼の前に来ると、まだまだ未熟な自分を痛感する。


「おれは、お前しか信用していない」


 襖を開けた瞬間、後ろから澤井の声が聞こえた。一瞬、動きを止めてから、瞳を細めて振り返る。


「嫌いで大好きな男の子ども——だからですか?」


「いや。お前はお前なのだろう」


「そうです」


「保住の息子ということを差し引いても、この役所内でおれの要望に応えられるのは、お前だけだと思っている」


「本気で言っています?」


「無論だ」


「嬉しいですね。ありがとうございます」


 精一杯の平常心。


 ——反吐へどが出る。気分が悪い。


 廊下に出ると和装の女性に声をかけられた。


「お帰りですか? お車ご用意いたしますが」


「いいえ。すみません。結構です」


 保住は、澤井の行きつけの料亭をあとにした。







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