第16話 最悪の理由
*
「お前は父親に似すぎている。ふとあいつがそこにいるような気持ちにさせられる」
視界に入る和室の天井と、澤井の顔に
「しかし、
彼はそう言うと、人差し指で保住の左目尻に触れた。それから、「ここだ」と右の口元に触れた。
人に触れられるのは、好きではない。好きなこと以外には全く無頓着なダメな人間だ。人生の中で、不本意な人間と関係を持ったことが何度かある。
面倒だからだ。いちいち細かいことで揉めたり、ああだこうだと言い合ったりするのが面倒なのだ。
ただ黙って、その場をやり過ごせばいい。そう割り切れば、どんなことだって、へっちゃらだったのだ。
だが。澤井は別だ。保住はじっと彼を見据えて尋ねた。
「澤井さんは、父のなんですか?」
「同期だ」
「それだけですか?」
「それだけだ」
澤井は表情を変えることなく、じっと保住の瞳を覗き込むように見据えていた。
「本当に?」
「お前の父親からしたらそうだろう」
「では、澤井さんからしたら、どうなんです?」
ごつごつした澤井の指が保住の顎をなぞる。澤井の瞳は自分を見ているようで見ていない。保住を通して、別な人間……そう、きっと父親を見ているに違いないと理解できた。
「そうだな。特別だな」
「男同士ですけど」
「関係ない」
「あなたは既婚ではないですか。父も然りです」
「関係ない」
こんなことになるとは思いもよらなった。そばに転がっている日本酒の瓶が目に入る。随分と飲んだ。澤井も、自分も。
澤井は酔っているのだ。遥か昔のことを思い出して、なにかに酔いしれているのだ。
「酔っていますよ。澤井さん。こんなこと……」
澤井の腕を払おうとすると、逆にその手首を捕まえられる。
「つ」
床に張り付けられるように抑え込まれると、さすがに嫌な気持ちになった。
「おれは、父ではありません」
「未練がある」
「だからって、代わりはしません」
酔いで据わっている視線は熱を帯びていて、本気な気がして怖い。だが彼から目を離すことはしない。じっとその視線を見返すと、彼は軽く笑ってから保住の上から退いた。
「ふ、お前でもそんな怯えた顔をするのだな」
「澤井さん……」
「お前には欲情せんわ。お前はあいつとは違う」
「それは良かった」
「お前の父がどうこうではない。お前はお前だ」
保住はからだを起こす。澤井は保住を見てはいなかった。彼はただ、じっと畳を見下ろしているばかり。
保住はそばにあった鞄を取り上げた。
「帰ります」
「送っていく」
「結構です」
「そう、
——冗談じゃない。どこが少しだ! 人の上に馬乗りになっておいて。
澤井には敵わない。上手。上手。彼の前に来ると、まだまだ未熟な自分を痛感する。
「おれは、お前しか信用していない」
襖を開けた瞬間、後ろから澤井の声が聞こえた。一瞬、動きを止めてから、瞳を細めて振り返る。
「嫌いで大好きな男の子ども——だからですか?」
「いや。お前はお前なのだろう」
「そうです」
「保住の息子ということを差し引いても、この役所内でおれの要望に応えられるのは、お前だけだと思っている」
「本気で言っています?」
「無論だ」
「嬉しいですね。ありがとうございます」
精一杯の平常心。
——
廊下に出ると和装の女性に声をかけられた。
「お帰りですか? お車ご用意いたしますが」
「いいえ。すみません。結構です」
保住は、澤井の行きつけの料亭をあとにした。
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