第14話 都会猫の背負うもの
「ここは、半角スペース。そして、ここは上と合わせて」
「はい」
「手紙ではない。こういった文言は削除。あくまで企画書だ」
「確かに。すみませんでした」
そんなやりとりが続く。企画書は赤ペンだらけになったが、シンプルかつわかりやすくなりそうだった。
「どうだ? 書けそうか」
「直してみます」
「よし。やってみろ。ああ、後、内容も再考すること」
「不十分ですか?」
「そうではない。考えることを止めたら終わりだ。提出するギリギリまで諦めるな」
「わかりました!」
大きく頷く田口を見て保住も満足したように笑顔を見せた。彼の笑顔を見ると、田口は何故か心が落ち着かなくなる。だが、今日は違った。
保住はかなり疲弊した顔をしていたからだ。いつも蒼白な顔色は、不健康なほどだ。目は充血し、周囲にはうっすらとくまができていた。
「係長……。顔色悪いですよ。体調、思わしくないのでしょうか」
「そうか? あんまり寝ていないからな」
保住は軽くそう答えたが、田口の心臓が音を立てた。
「昨日は残業されなかったじゃないですか。その……?」
聞きたいのに聞けないもどかしさ。田口は口ごもり、ただ保住を見据えていた。田口の気持ちなど知る由もない保住は、ふと顔を上げて「二日酔いってやつだな」と言った。
「局長と飲みにいかれたんですか?」
余計なことを言うタイプではないのに、聞かずにはいられない。ずっと気にしていたことだからだ。田口の言葉に保住は目を瞬かせた。
「よくわかったな」
「渡辺さんたちに聞きました」
「そうか。また悪いことでも吹き込まれたのか?」
「悪いことって……」
「澤井の秘蔵っ子とか」
そういう言い方ならまだいい。『職場内不倫』。そう言っていた。保住は両手を後頭部で組むと、椅子に体を預ける。
「澤井には、昔からちょっかいをかけられていた。たまに、こうして連れ回されて説教垂れてくるんだ。組織には不適応なおれだが、澤井からは色々と叩き込まれたし。逆らうわけにも行かない。昨日は、一言文句を言ってやろうかと、敢えて誘いに乗ったが。最悪だ。酒は弱いほうではないが、悪い酒は後々尾を引く」
「悪い酒……ですか」
彼は手を止めて田口を見る。
「おれの父は市役所職員だったのだ」
「え?」
——突然の話題転換? しかも、過去形?
保住の意図がわからない。田口はただ保住を見返した。すると彼は視線を伏せる。
「父は死んだ。志半ばで。澤井とは同期だそうだ。そのおかげで澤井に目をつけられている。あいつ。おれの父が気に食わなかったらしい」
「ご病気、ですか」
「そうだ。膵臓癌だった。見つかった時には手遅れ。あっという間にいなくなった。……別に、父の跡を追うつもりはなかったんだが。あの人は、家庭を全く顧みない人だった。仕事、仕事、仕事。休みの日も仕事。しまいには、自宅にまで後輩や同僚が集まってきて、父を囲んでいた。
一体、この人を魅了しているものは何なのか——。父の仕事とはなんなのだ。そんな思いを抱いていた。見てみたかったと言ったらそうなのだろう。
おれが入庁する前に父が死んだ。妹は、高校入学でね。母一人では生活も大変そうだった。
おれの母は、全くの専業主婦で、奥様付き合いは得意な人だったが、なにせ社会に出て稼ぐことをしたことがない。頼りないものだったな」
「それで……」
「そうだ。広範囲な転勤もなくて安定している仕事。結局は、そういう理由もあってこの仕事に就いた」
「あの」
「なんだ」
「係長は東大卒業だと聞きましたが」
「それがどうした」
保住は、あっさりと答える。
——噂だって言っていたのに。聞いたら答えるじゃない。
田口はなんだか笑ってしまった。
「なぜ笑う」
「いえ。渡辺さんたちが噂だって言っていましたから、聞きにくいことなのかなって思っていたんですけど」
「別に。逆に恥ずかしくて言えないだろう? 地方公務員が悪いとは言わないが、この職を選んだ時、周囲に猛烈に反対されたのは言うまでもない」
「係長の経歴だったら国への道も普通にあり得ますよ」
「そうでもない。そんなにできた人間ではないのだ。おれは何の目標もなく、ただ勉強をしてきただけの落ちこぼれだ」
「そうでしょうか」
それは「できる人」だから言える言葉だった。田口からしたら、保住という男は雲の上のような存在だ。田舎からやっと出てきた自分とは、違う世界にいる人なのだ。
「しかし。お父さんが市役所にいて、局長と同期となると、やりにくかったのではないですか?」
「ここに入庁してきた時から、父の影響はおれに大きくあったな。役所内には派閥があるようだ。お前、知っていたか」
「派閥、ですか。耳にしたことはありませんが、薄々感じることはありますね」
「そうか。お前は優秀だな! おれは全く知らなかった」
保住はあっけらかんと笑った。周囲が見えていないのは確かだ。田口も釣られて笑うしかなかった。
「父を支持していた派閥があったそうだ。父が死んで解散するものかと思いきや、それは細々と続いていたらしい。おれが入庁した後、色々な人に声をかけられてきたのはそのせいらしい」
「好機じゃないですか。係長は二世です。係長を祭り上げれば派閥が息を吹き返す」
「そう言うことだな」
「いい迷惑ですね。係長。そう言うの嫌いじゃないですか?」
「よくわかるな。その通り」
「でも、派閥があるってことは相反する勢力もあるってことですよね」
保住は苦笑する。
「澤井は父が嫌いだったそうだ。父が生きていれば、骨肉の争いになっていただろうけど。幸い、父は先に脱落した。それはそれでよかったのだろう。市役所を二分し兼ねないからな」
「なのに、澤井局長は係長がお気に入りじゃないですか」
「気に入られているわけではない。あいつは父の代わりにおれにちょっかいをかけているだけだ」
澤井は保住が嫌いだとは思えなかった。
——あの人。
昨日の澤井の横顔。忘れられない。あの目は、嫌悪や憎しみではない。あれは……。
そこまで考えあるはったとする。保住は自分の思考に意識を向けているのか、田口の変化に気がつく様子はなかった。
「澤井の目にはおれをおれとしてではなく、父を重ねて見ていることがわかった。おれはあの人が嫌いだ。一緒にされるのは心外なのだ」
「お父さん、お嫌いなのですね」
「そうだ」
保住は、じっとしている。彼の中には、彼にしか理解できない様々な思いがあるのだろう。田口には理解できない。だが保住が、とても辛そうにしているのはよくわかった。
「すみません。おれ。気の利いた言葉をかけることができません」
田口の戸惑いを感じ取ったのか、保住は笑った。
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