第12話 結局は落第点




 眠れぬ夜が明けた。田口は言い知れぬ不安や、モヤモヤとした不快な気持ちに苛まれていた。


 ふと気がつくと、カーテン越しに鳥の鳴き声が聞こえ、その隙間からは朝日が覗いていた。


 ——係長。局長とどうしたのだろうか。


 スマートフォンを取り上げて時間を確認する。いつもよりも早い時間だか、こうしていても仕方がない。ベッドから起き出し、そのままバスルームに向かう。


 体力があるとはいえ、こう寝不足のまま、職場に足を向けたのでは、支障をきたしそうだ。頭から熱い湯をかぶり、邪念のように田口の頭を支配しているものを振り払いたかったのだ。


 前職でもそうだった。職場に行ったって、なにがあるってわけでもないのに、何故か足が向く。一人きりの部屋にいるよりも、誰かの存在を感じることができる職場のほうが落ち着くのだ。


 嫌な上司がいる職場でも。

 

 ——そうだ。おれはあの人が嫌いだ。だらしのない格好をしていて。私生活もだらしがないじゃないか。上司の運転する助手席に乗るか? 普通……。


 左目尻にあるほくろが、田口の目を引く。

 いつもは見せない笑顔の澤井も、優しい瞳で保住を見下ろしていた。


 ——何を考える。おれは馬鹿なのか?


 ただ上司が部下を誘って連れ出した。それだけのことが、こんなにも田口を悩ませるとは。その理由がわからない。


 田口はいつもよりも随分と早い時間に、玄関を出た。職場に着いたのは七時少し前。誰もいるはずがない。静かな職員玄関から足を踏み入れようとして、ふと視界に止まった空を見上げた。妙にいい天気なのが、また頭にくる。


 季節は五月だ。少しずつ空気がよどんできて夏が近づいている。梅沢市は盆地であるため、夏はジメジメとした高湿度の暑さになる。田口の地元は平野だったから、この盆地の夏はからだに堪えるのだ。


 ——夏は好きなはずなのに。


 梅沢市の夏は、夏ではないようで、好きになれなかった。


 守衛に挨拶をし、IDをかざしてから足早に二階に上がる。振興係の扉を開けた田口を待っていたのは、保住だった。


「おはよう。田口。昨日の企画書なんだが……」


 一瞬。誰もいないと思っていた田口は、面食らってしまった。しかも、今朝まで自分を悩ませた張本人と出会したのだ。田口の思考はフリーズしていた。


「なにボケっとしている」


 保住は寝癖だらけの頭を掻きながら、顔を上げた。


「すみません。おはようございます。……係長。早くないですか。驚いてしまいました」


「今日は特別な。残業もしないで帰ったせいで仕事が滞っている」


 ——昨日……。そう。昨日。


 田口は昨日の澤井と彼の様子を思い出し黙り込む。保住は首を傾げた。


「なんだ。その顔は」


「いえ。なんでもありません。すみません。頭が働いてません」


「そういう顔している」


 彼は目を細めた。ズキンと胸が痛む。


 ——おかしい。


 田口は胸元を抑えた。胸が痛い。体調は悪くないはずだ。今までにこんな痛みを感じたことはあっただろうか?


「なんだ。体調が悪いのか? 顔色が悪いみたいだが」


「そういうわけでは。すみません。おれの仕事が遅いから、係長にもご迷惑をおかけしています」


「そういう言葉は終わってからにしろ。まだまだ考えてもらわないといけないところがある」


「わかりました」


 ——昨日のような失態はしない。


 冷静に受け止めるのだ。田口の実力は明るみになったのだから。今更隠すことでもない。これが現実だ。


 出来ないなら学べばいい。自分には、まだまだ知らなくてはいけないことが山のようにあるのだ。


 田口は荷物を席に置くと、さっそく保住のところに向かった。


「そこの椅子持ってきて」


「はい」


 そばの谷川の椅子を引っ張り、指示通りにそこに座った。保住は田口の企画書を差し出してきた。それを覗き込むように前屈みになると、保住との距離が縮まる。彼の熱が感じられて、田口の心臓は軽く鼓動を早めた。


「内容はすごく良くなった。あとは書き方だな」


「書き方は……」


「そうだ。書き方はひどいものだ!」


「すみません。採点は?」


 田口の言葉に一瞬、保住は目を見張るが、苦笑して答える。


「そうだな。内容は六十点。書き方は十点に近い」


「本当ですか? 落第点ですね」


「まったくだ。今までどんな教育を受けてきたんだか」


「すみません」


「お前に悪気はないだろう。教える側の問題だ」


 保住はそう言うと、赤ペンを出して田口の企画書に改善点を書き入れ始めた。


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