第11話 最悪の気分



「澤井局長は、他の誰よりも係長のことがお気に入りだ」


「そうなんですか?」


「あの人。おれたちのことなんか眼中にないからな」


 谷口が説明する。


「そうそう。おれなんか、企画書を持って行ったら、『お前誰だ』だって。もう数年ここにいるのに」


 ひどい話であるが、そんな話も笑い話にしてしまうこの部署の職員たちのメンタルの強さには脱帽だった。


「あの人だけだよ。澤井さんが自分のテリトリーに入るのを許可するのは。係長は嫌がっているみたいだけどね」


「そうなんですね」


 ——なんだろうか? 胸がチクッとするのは。


「男と女だったら、さしずめなんだろうがな」


 矢部の言葉に谷口が笑った。


「本気で矢部さんの妄想癖には開いた口が塞がらない」


「なんだよー!」


 仕事が一段落したからなのだろうか。


 ——なんだろう? この脱力感。


 力が抜けてふにゃふにゃだ。


「田口、帰ろう」


 渡辺に声をかけられて顔を上げた。


「すみません。もう一つやり残したことを思い出しました。お先にどうぞ」


「そうか? じゃあ、また明日な。今日はお疲れ様」


「お疲れ様です」


 頭を下げて三人を見送る。


 胸がざわざわしていた。気分が優れないと言う感じだ。大した用もないのに、メモをいくつか整理してから立ち上がる。何人か残っている他の島の職員に挨拶をして、自分たちのところの消灯をした。

 それから、階段を降りた。この時間、正面玄関は施錠されてしまうので、裏玄関からの出入りだ。どちらにしろ、IDをかざすシステムも裏玄関にしかない。退勤するためには、どの職員も裏玄関を抜けるしかかないのだ。

 のそのそと長い廊下を歩き、玄関に出ると、鋭い重低音の声が耳について、弾かれるように顔を上げた。


「遅い!」


 キョロキョロと視線を巡らせると、自分の少し前を歩いていた男が、めんどくさそうに頭を下げた。


「どうもすみませんね。観光課で打ち合わせがあって……」


「そんなものは断れ」


「そんな無茶な。仕事をしてきたんですよ」


「何度教えこんでも理解していないようだな。物事の優先順位を」


「そうでしたか? すぐ忘れちゃうんですよねぇ」


 背伸びをしてのらりくらりしているのは保住。黒い国産の高級車の前にいるのは澤井だ。


「お前の冗談はつまらん。口を開くな」


「すみません」


 お小言を言われても気にしていない保住は、澤井に促されるまま彼の助手席に姿を消す。それを見送って田口は大きくため息を吐いた。


 ——散々だ。

 今日一日を一言で言うならばそう。本当だったら企画書を見てもらって、少しは褒められるはずだったのに。


「褒められるだって?」


 ——誰に?


「係長に?」


 ——まさか! 仕事だぞ。子どもじゃないんだ。


「なに期待してんだよ……おれ」


 ——最悪。あれもこれも係長のせいだ。


 そうに違いないと思ったら。


 ——あの人にかき乱されて最悪だ。自分が自分じゃないみたい。


 頭を横に振っても離れない。さっきの光景が……。

 澤井は、笑っていた。ご機嫌だった。


 ——なぜだ。保住をエスコートしている澤井が羨ましい。

 

 そんな風に考えている意味がわからない。


「うう……」


 ——最悪。


 田口は頭を抑えながら帰途についた。

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