第10話 格の違い


 定時になった。企画書を必死に仕上げた田口だが、保住のところに持参すると、「今日は見られない」宣言をされてしまった。


「田口。すまないな。少し用事ができた。預かるが、返しは明日の朝だ」


「構いませんが」


 ——大したことない。


 田口は表情を変えまいと、勤めて努力をしながら、そこにいた。だが。心の中は嵐みたいに荒れていた。


 今晩も企画書を見てもらえると思った。昨晩のように。残業をして。また一緒に考えてくれるのではないかという淡い期待があったことは、否定できない。


「今日は係長もお疲れでしょう? こんな田口の企画書なんか放っておいて、早く帰りましょうよ」


 渡辺は冗談まじりにそう言ったが、田口の心は落ち込むばかりだ。確かに、保住は忙しい。出来損ないの自分のためばかりに時間を費やすことなどしないだろう。


 きっと嫌われたのだ。呆れられたと言うことか。ただ黙って自席に腰を下ろすと、保住は苦笑いを浮かべた。


「早く田口の企画書を片付けて、ゆっくりできるものなら、してみたいものです」


「じゃあ見てやったらいいじゃないですか。ははあん。さては、プライベートも大忙しですね?」


「渡辺さん、そういうの嫌味っぽいですけど」


「いいな~。おれもいつも忙しいとか言ってみたいな」


 谷川はおどけたように肩をすくめた。


「彼女もいないし。どうせ帰ってもテレビとお友達ですよ」


「そうそう。おれも」


 矢部は自虐的に「へへ」と笑うが、渡辺が「お前は暇で見ているんじゃなくて、好きで見ているんだろう?」とツッコミを入れた。そんな三人のやり取りを笑顔で見ている保住の表情は、どこか影がさしている。


 田口は首を傾げた。


「話が逸れるだろう! お前たち」


 渡辺は二人を嗜めてから保住に視線を向けた。


「で。仕事なんですか」


「仕事の延長ですよ。仕事」


「仕事関係ですか。仕方ないですよ。係長ともなれば、お付き合いも大事ですよ。ここから上に行くかどうかは、そういうところの努力も必要だ」


「渡辺さん、おれはそういうものには、興味がないんですよ」


「周囲が放っておきませんよ。なにせ期待の新星なんですから」


 保住は「そんなんじゃないです」と答えたかと思うと、田口を見た。その漆黒の瞳に見据えられると、どきりとした。


「すまないな。田口。これは預かっていく」


「いえ。おれが遅いばかりに、自宅にまで持ち帰らさせてしまって。申し訳ありませんでした」


「いや。いい。よく頑張った。楽しみに読ませてもらう」


 就業のチャイムが鳴り出す。彼は帰り支度をして立ち上がった。


「観光課に用事があるので、そこに寄ってそのまま帰ります」


「了解です」


「お疲れ様でした」


 疲労の色が濃い保住の顔色は、いつにもまして蒼白だった。


 ——なにを食べているのだろうか。体調は、大丈夫なのだろうか。


 保住が食事をしているのを見たことがない。飲み物だけで終わっている日も多い。あれでは痩せるに決まっているし、体力もないはずだ。なのに無理をして残業をしていることも多い。体調を崩しそうだ。


 そんな心配をしつつ、自分はどうしようか? と思った。企画書を見てもらわない限り、次に進めない。


 ——今日は残業しても仕方がないな。


 そう決めてからパソコンの電源を落とす。他の三人も伸びをしたりして、帰宅の準備だった。


「係長って、すごく期待されているし、優秀なんですね」


 田口の呟きに隣の谷川が笑う。


「そりゃそうだろう」


「ってか。お前。噂を聞いたことないの?」


 矢部は笑った。


「こんな地方公務員にはもったいない、東大卒だぞ」


「え? とう、だい?」


「そうそう東大」


 矢部は自分のことのようにドヤ顔だ。


「東大って……あの東京大学ですか?」


「噂だけどな。誰も真実は知らない」


「なんだ。嘘かもしれないってことですか」


 しかし、嘘ではない気がする。あの能力の高さは並外れている。田口の思考ではついていけないほど。自分が優秀とは思わないが、それでもなお凄すぎる。


「澤井さんも可愛い部下なんだよ。係長が」


「え? 局長が?」


 可愛いという表現は澤井には似つかわしくなく、なんだか笑ってしまう。


「今日は、さしずめ局長の呼び出しだろうな」


 渡辺は気の毒そうに肩を竦めて言った。


「局長の……」


 田口は口の中で繰り返した。



「澤井局長は、他の誰よりも係長のことがお気に入りだ」


「そうなんですか?」


「あの人。おれたちのことなんか眼中にないからな」


 谷川が説明する。


「そうそう。おれなんか、企画書を持って行ったら、『お前誰だ』だって。もう数年ここにいるのに」


 ひどい話であるが、そんな話も笑い話にしてしまうこの部署の職員たちのメンタルの強さには脱帽だった。


「あの人だけだよ。澤井さんが自分のテリトリーに入るのを許可するのは。係長は嫌がっているみたいだけどね」


「そうなんですね」


 ——なんだろうか? 胸がチクッとするのは。


「男と女だったら、さしずめなんだろうがな」


 矢部の言葉に谷川が笑った。


「本気で矢部さんの妄想癖には開いた口が塞がらない」


「なんだよー!」


 三人は顔を見合わせて笑い合っていた。けれど。田口は一緒に笑える気持ちにはならなかった。


「田口、帰ろう」


 渡辺は荷物を持ち上げた。谷川は矢部も鞄を持っている。田口はリュックを手を離す。


「すみません。もう一つやり残したことを思い出しました。お先にどうぞ」


「そうか? じゃあ、また明日な。今日はお疲れ様」


「お疲れ様です」


 頭を下げて三人を見送る。


 一人になりたかった。

 胸がざわざわしていた。

 気分が優れなかった。


 大した用もないのに、メモをいくつか整理してから立ち上がる。何人か残っている他の島の職員に挨拶をしてから廊下に出る。


 なんだか足元がおぼつかない。

 自分の中の変化に戸惑いばかりだった。


 帰宅していく職員たちの間をぬって、階段を降りる。職員玄関でIDパスをかざしてから外に出る。


 市役所の敷地は狭い。職員玄関の外はすぐに公道うが走っている。職員たちは、そばの駐輪場に向かったり、近場の月極駐車場へ向かったりしている。その中で。路肩に一台の国産高級車が目についた。


 こんなところに堂々と。田口がふとそこに視線をやると、車のところに仁王立ちしているのは局長である澤井だった。


 その瞬間。彼は「遅い!」と重低音の声を上げた。そこにいた誰もが、その威圧的な声色に動きを止める。しかし。田口の前を歩いていた男が「どうもすみませんね」と頭を下げた。


「観光課で打ち合わせがあったんですよ」


 この後ろ姿は。


「係長」


 田口は足を止めて二人を見守る。周囲の人間たちは、自分に関係がないとわかると帰途に就く。まるで、澤井と保住、田口だけを取り残して時間が動いているようだった。


 澤井は思い切り不機嫌そうな表情で「そんなものは断れ」と言った。


 保住は肩をすくめる。


「そんな無茶な。仕事をしてきたんですよ。褒めてくれないんですか。優秀な部下ですよ」


「何度教えこんでも理解していないようだな。物事の優先順位を」


「そうでしたか? 重要なことしか覚えていられないんです」


「お前の冗談はつまらん。口を開くな」


「すみません」


 お小言を言われても気にしていない保住は、澤井に促されるまま彼の助手席に姿を消す。それを見送って田口は大きくため息を吐いた。


 ——散々だ。


 今日一日を一言で言うならばそう。本当だったら企画書を見てもらって、少しは褒められるはずだったのに。


「褒められるだって?」


 ——誰に?


「係長に?」


 ——まさか! 仕事だぞ。子どもじゃないんだ。


「なに期待してんだよ……おれ」


 ——最悪。あれもこれも係長のせいだ。


 そうに違いないと思ったら。


 ——あの人にかき乱されて最悪だ。自分が自分じゃないみたい。


 頭を横に振っても離れない。さっきの光景が……。

 

 澤井は笑っていた。

 ご機嫌だった。

 自分よりも背の低い保住の耳元に口を寄せてなにか囁く澤井の横顔が忘れられなかった。


 ——なぜだ。係長をエスコートしている局長が羨ましい。

 

 そんな風に考えている意味がわからない。


「うう……」


 ——最悪。


 田口は頭を抑えながら帰途についた。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る