第4話 田舎犬の戸惑い
「おれは、体を動かすことが面倒で避けてきた。学校では、平均を取っていればいいと思っていたから、それ以上努力もしなかった。まあ、運動音痴だからな。結構それでも頑張ったほうだと思うが」
「運動音痴なのでしょうか?」
——こんなにスマートで身のこなしもいいのに?
田口は目を瞬かせた。
「走らせてみろ。お前になんかあっという間においていかれるぞ」
保住の笑顔はあどけない。古めかしい言い回しや立ち居振る舞いなくせに、こうして時折見せる笑顔は、年相応で幼い。
この年で係長という重責を背負わされているのかと思うと、幸か不幸かわからないものだ。
「そんな。ご冗談を」
「まあ、いずれわかる。そういう理由で運動からは遠ざかってきた。だから、そういう勝負の世界は知らない。いい世界だ。素晴らしい」
「係長はとても褒めてくださいますが、体育会系の勝負事はみな、そんな感じですから。なにが素晴らしいのか、おれには理解できません」
「そうか。高校生の時に、後ろの席の奴に『おれもその大学に行きたいから、譲ってよ。保住くん受験失敗してくれない?』と言われたことがあるな」
「え!? そんなこと言われて『はい、わかりました』なんて言う馬鹿がどこにいるのですか」
田口は驚いて声を上げたが、保住はニヤニヤと笑うばかり。
「そんなものは日常茶飯事だ。おれも少しねじが外れているからな。そんなことを言われてもなんとも思わなかったが、こうして社会に出てみて、いろいろな経験をして、まっとうな人間の感覚で見たら、あいつはクズで異様な奴だったな」
「クズって……」
——こんな可愛い顔をして怖いことを言う。
田口は開いた口が塞がらない。
「ああ、すまん。おれは口が悪い。思っていることを言ってしまうのだ」
「係長」
飛んでいる発言が多くて、やっぱりついていけない。つつましい田口の世界観とは真逆。頭のいい人は、みんなそうなのだろうか——と不思議に思えた。
「おれが生きてきた世界は、人を蹴落として上に行くことを考えている奴ばかりだった。だから、おれは田口の見てきた世界は素晴らしく見える」
彼は目を細めて微笑んだ。
「本当にお前は、いい育ちをしている」
「な、そんなことを褒められても意味ないです。仕事ができません。企画書もこんなに時間がかかっても、大したものが思い浮かびません。こんなダメな男、市役所一の落ちこぼれです」
田口は目がしらが熱くなる。
——褒められた。人に。梅沢市に来て、こんなこと初めてだ。市役所に入庁して、こんなこと初めてだ。
田口は突然に生まれたこの感情を扱いきれずに戸惑っていた。おろおろと狼狽えてしまっていたのだ。
しかし田口の中の戸惑いを保住は知らない。きょとんとして、それからぽんと手を鳴らした。
「そうか。お前。企画書で悩んでいるのだな」
「だ、だって。できません。ずっと悩んでいます。考えているんですけど。星野一郎先生を知れば知るほど、どうしていったらいいのか全くわかりません」
保住は立ち上がると、田口のとなりに立つ。
「そんなに追い詰められていたのか」
「いや。その……」
言葉に詰まっていると、保住の手が伸びてきて、田口の頭をポンポンと撫でた。
「すまないな。気づいてやれていなくて」
まるで子供をあやすような仕草。けれど、悪くはない。むしろ、保住の手の温もりに、心に色々な思いがじわじわと溢れてきて涙が出そうになった。
「いや、仕事です。できなくちゃいけないんです。すみません。おれの能力が低くて……」
——自虐的な言い訳なんて無意味。
そう思うが、どうしてもよく見せたくて。保住にできない自分を見せたくなくて。
必死だったのに……無理だと観念した。露呈してしまった事実を隠す言い訳ほど虚しいものはない。
——できない奴だとレッテルを貼られる。
田口は「もうダメだ」と自分自身に落胆した。
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