第3話 田舎犬の見てきたものは
どれくらい時間が経ったのだろうか。とりあえず、なんとなく浮かんだ構想を書類に落とし込んでいると、お腹が鳴った。残業をする時は、夕食を調達することもあるが、予想外の残業だったので、そこまで頭が回っていなかった。顔を上げると、時計の針は夜の十時を回るところだ。
——もうこんな時間か。
そう思って保住に視線を向けると、彼は黙々と仕事をしているところだった。
「係長」
「ん?」
保住は先ほどと同じ空返事だ。
——もしかして……。
田口は立ち上がり、保住の側に行って声をかけた。
「あの! 係長」
大きな声で彼を呼ぶと、弾かれたように保住は顔を上げた。それから目を瞬かせてから口を開いた。
「驚くだろう。……なんだ。田口じゃないか。今日は残業なしの日だろうが。何故残っている」
——やっぱり。
さっきのやり取りは、彼の意識には残っていなかったらしい。田口は顔を押さえた。
「……先ほど、あなたの許可をもらいましたが」
「そうか? いつ? さっきって?」
——これ以上は無理。
田口が険しい表情になるのを見て、保住は笑った。
「そう生真面目に捉えるなよ。別にいいじゃないか。人事に見つかったら『ごめんなさい』しておけばいいのだ。おれだって残っているんだ。おれの手伝いをさせられた、とでも言っておけ」
保住は大きく伸びをする。
「久しぶりに仕事が捗った。お前はいい。ああだこうだとうるさいことを言わないからな。あいたたた。背中が痛いぞ。同じ姿勢でいたからだな」
「痩せすぎなんですよ。筋肉つけないと」
つい思っていることが口に出てしまう。はっとして口元を押さえるが遅い。保住は大して気にしていない様子で首を傾げた。
「そうかな?」
彼は自分のからだを見渡している。
「運動はお好きではないんですか?」
「どうしてそう思う?」
「まったく運動していない体型をしていますよ」
「え! なんで見てもいないのにわかるのだ」
保住の驚きように、逆にはっとして顔が熱くなってしまった。
「べ、別に。ジロジロ見ているわけではないですからね! おれが運動系だったので、それとは相反する体系だなと思ったので。きっと筋肉なんてついていないんだろうなという想像です」
「想像って、お前……」
「だから! 変な風に捉えるのはやめてください」
保住の前では無表情なんて形無しだ。
——からかわれているんだ。きっと。いや。確実に……っ!
「お前の推理は、大正解だな」
田口の戸惑いなど気がつきもしなきのか、保住は豪快に笑いだした。
「……」
なんだか、面白くないなは気のせいではない。田口は咳払いをして黙り込んだ。
「おれの人生、運動というものには全く縁がない」
「縁がないのではなく、関わってこなかっただけですよね」
「まあ、そうだな。今の日本の教育では、否応なしに体育というものをやらされるからな」
「そうですね」
「からだを動かすことは嫌いだ。頑張るというのも好きではないな」
「そうなんですか?」
「勝負事は嫌いだ。面倒だし。勝っても負けても嫌な気持ちになる」
「そうでしょうか……」
「平和主義みたいな顔をしているくせに、勝負事が好きか」
保住は意外そうに田口の顔を覗き込んできた。じろじろ見られると恥ずかしいので、思わず視線を逸らしてしまった。
「ずっと剣道をしていましたから、勝っても負けても後味が悪いという気持ちがわかりません」
「ほほう」
保住の相槌は、自分の言葉を促すような力がある。ペラペラとしゃべる質ではないはずなのに、言葉がわいてくるのだ。
「おれはいつでも真剣に勝負してきました。相手もそうです。自分が勝ったとしても、相手に敬意は払いますし、負けても敬意を払います。相手も然りです。ですから、いつでも勝負して良かったと思います」
「悔しいという気持ちは起きないのか?」
「それはありますよ。ですが、悔しい気持ちは相手に対してではありません。出来ない自分に対してです。自分の能力がそこまで到達していなかったということです。それに勝負には、運もあります。今日勝った相手に、明日また勝つという保証はありません。ですから、相手を恨むなんてことはあり得ません」
「それはお前だけの話ではないのか? 剣道をやっている人間が全てそうだとは到底思えんな」
「それはそうです。世の中にはいろいろな人間がいます。ですが、おれはそうしてきました」
田口の言葉に保住は大きく頷く。
「それは、興味深いな」
「そうでしょうか」
「おれが経験したことのない世界だ。大変面白い!」
保住のリアクションはなんだか古めかしくて笑える。田口は少し吹き出した。
「笑うな。失礼なやつだな」
「笑っていませんよ」
「いいや。笑ったぞ。失礼だな。おれは心から感銘を受けているのだ」
「そうでしょうか」
——自分の見てきた世界がすべて。
田口にとって当たり前の、その世界を「面白い」という人がいることに驚いていた。
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