第2話 星野一郎と自分





 田口が取り組む企画は、星野一郎記念館ロビーで、定期的に開催されているミニコンサートの企画をするというものだった。


 この企画は、数年続いているものだ。毎回、星野一郎の作品を取り上げて、アマチュアからプロまで様々な演奏家たちが、あの雰囲気のよいサロンでコンサートを開く。

 

 その事業の、下半期にあたる十月、十二月、二月のプログラムを考えるのが田口の仕事だ。使える予算は限られているようだ。今までのコンサートの記録を見直すと、演奏家たちはアマチュアか、セミプロばかりだ。声楽家、室内楽、ピアノ、ハーモニカ、オカリナ、ギター、ハモンドオルガン等々、様々な演奏家たちがすでに出演済。


 星野一郎を最近知ったばかりで、しかも音楽には明るくない田口にとったら、難易度の高い企画といえる。田口は、星野一郎記念館で自腹で購入してきた彼の資料を眺めた。


 ——どうしたら彼らしい音楽会になるのだろうか。星野一郎とは、どんな人なのだろうか。


 彼は、市内の商家に生まれ、特に不自由な暮らしをしたことがないようだ。家族が音楽好きで、当時では珍しく音楽に携わる機会が多かった。しかも理解のある父親の元で、音楽を勉強させてもらって、作曲に没頭していった少年時代だった。


「恵まれているのだな」


 好きなことをして、好きな時間を過ごせる。


 ——自分もそうだ。星野一郎にはおれとの共通点がある。


 大好きな剣道に没頭した青春時代。両親の手伝いもせず、兄たちが稼業の手伝いをしているのを横目に自分のやりたい事をしていたのだ。


 ——甘やかされて育ったのだな。おれは。


 人の人生を追っていくことで、まさか自分の人生を振り返ることになるとは。田口は不思議な感覚に陥った。


 自分の父親は、昔から町議会議員をしていたわけではない。もともとは、農業一筋の人だった。地元では土地を管理し、地主的な立ち位置にいたおかげと、父親の元来の人の好さもあり、田口家は地元の総まとめ役を担うことが多かった。そんな中で、いつの間にか、周囲に押されて町議会議員になった父親。


 祖父母や両親、兄二人に囲まれて、田口は何一つ不自由なく暮らしてきた。なんの不安もないその生活は、当たり前の日常だったのに。それが今となっては、かけがえのない幸せな時間だったということだ。


 ——あの幸せは、家族がおれを守ってくれたからあった幸せだったんだ。おれは、そんな環境から、飛び出してきた。おれの選択は正しかったのだろうか? 


 家族への思いが複雑に田口の胸を締めつけた。


 ——この町に来て、なにが良かったのだろうか? おれはなにを得たのだろうか?


 どうやら田口は、迷路に迷い込んでしまったようだ。本題の企画を考えるどころか、自分の処遇のことについて思い悩む結果になってしまうとは……。軽く眩暈がすると、動悸がして冷や汗が出てきた。


 しかし無表情の田口の変化に気がつく者はいない。時間ばかりが過ぎていった。


「田口」


 ぼんやりとした意識の中、自分の名前が聞こえてはっと顔を上げる。すると谷川が首を傾げてこちらを見ていた。


「はい」


「田口? 終業時間だぞ」


 はっとして時計に視線を向けると午後五時十五分を過ぎていた。 


「すみません。考え事です」


「企画、頑張れよ」


 今日はノー残業デーの水曜日。どこの部署の職員も、それぞれ荷物をまとめて帰り支度だ。田口も大きくため息を吐いて、書類をまとめるしかない。このままでは、明日までに初稿を出せる気がしなかった。資料をまとめて自宅で仕事をすることにした。


「お疲れ様」


 それぞれが声をかけあって、職員はバラバラと帰途に就く。もたもたとしていたら、残っているのは自分と保住しかいなくなった。彼は帰るつもりはないらしい。パソコンをパチパチと打っていた。


 ノー残業デーに残業をしていることがばれると、人事から矢のような非難を受けることになる。それが恐ろしくて帰宅する職員が多い中、保住はまったくもって従うつもりはないようだった。田口は意を決して立ち上がり、保住の元に歩み寄った。


「あの」


「ん?」


 彼は視線を上げるわけでもなく軽く返答した。


「あの。残業したいのですが」


「え? すればいいじゃない」


「いいんですか?」


「いいけど? おれも帰る気ないし」


「そうですか。ありがとうございます」


 あっさり上司のOKが出て、なんだか肩の荷が下りたような軽い気持ちになる。大袈裟かも知れないが、自分の人生の重い物を背負ってしまった気持ちが、ふと少し軽くなった気がしたのだ。田口にとったら、それくらい大事件だからだ。


 田口は自席に戻ると、まとめかけた書類を広げてから、星野一郎について考え始めた。





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