第5話 相違




 しかし保住は、ただ黙ったまま田口を見下ろした。その沈黙は田口の心を少しずつ癒してくれるかのような温かさがあった。


 しばらくして、保住は低い声で言った。


「お前のせいではない。お前のせいではないのだ。おれが悪かった」


「え……」


「最初から無茶な企画を押し付けたようだ。音楽をやっていた素地もないお前には、少しハードルが高すぎたようだ」


「すみません……」


「ただ、一つだけ。信じて欲しい。おれは、お前ならできると踏んだ。それだけの話だ」


「係長は買い被りすぎです。おれにそんな能力はありません」


「いや。そうは思えなかった。この一カ月のお前の仕事ぶりを見た。お前は仕事と真摯に向き合う男だ。それにお前は星野一郎に興味を示した。きっと上手くいくと思ったのだ」


「期待を裏切りました……」


 肩を落とした田口。保住は椅子を引っ張って来ると、田口の隣に座った。


「しかし少しは考えたのだろう」


「え、ええ。まったく形にはなっていませんが、なにもしていなかったわけでは……」


「では聞かせろ」


「え?」


「一緒に考えてやる」


「係長」


「早く」


「はい……」


 田口は狼狽えたまま自分のノートを引っ張り出し、今日一日考えていたことを伝えた。


 星野一郎の人生を振り返ったこと。彼の人となりをイメージしたこと。


「田口は星野一郎を初めて知ったのだったな」


「はい。名前を知りませんでした。けれど、曲を聞いてみると、知っていました。自分の青春時代を思い出しました」


「なぜだ」


「スポーツの曲が好きだからです」


「しかしスポーツをテーマにしたものは、すでに企画されている」


「そうですね。それに、秋はしっとりした感じがします。スポーツもいいですが……」


「星野一郎の曲にもしっとり系は結構あるな」


「そうですね。しかし……そういった企画は、もうすでに組まれていますよね」


 田口はそう言うと、パソコンで手当たりしだいに取り寄せていた資料を眺めた。


「係長。彼の幼少期の作品だけを特集した企画ってありましたか?」


「それは見かけた記憶がないが」


「星野一郎が梅沢市で生活していた時代、まだ駆け出しの作曲家でしたが、様々な曲が生まれています。有名ではないかも知れないけれど、リストにしてみたところ、いい曲が多いのです。星野一郎の作品を演奏する場合、テーマにそって組まれることが多いようですが、時代で区切ってみるのもいいのかも知れないと思ったので」


 保住はじっと聞き入っていたが頷いた。


「いい着眼点だ。それを起こして企画書にしてみるといい」


「本当ですか?」


 田口は、ぱっと目を輝かせる。悩みに悩んだ結果、ボツになったらかなり落ち込む。保住のOKが出たおかげで、ほっとした気持ちになった。


「一日かかったな」


「かかりました」


「しかし、いいアイデアだと思う」


 彼はそう言うと、椅子から立ち上がった。


「企画書は明後日の朝まででいい」


「え、でも初稿は明日までと」


「おれが初稿で見るのはコンセプトだけだ。今日、ここで聞いたので初稿はOKとする」


「係長……」


 彼はパソコンの電源を落とす。


「田口も終わりにしろ。本日はノー残業デーだ。係長のおれが帰るのだから、これ以上の残業は認めない」


「はい」


 田口は慌てて帰り支度だ。


「一日、思い悩んで大変だったな」


「いえ。仕事です」


 労いの言葉をかけられると、なんだか気恥ずかしかった。


 片付けを済ませてから、二人は外に出た。外はきれいな月が出ていた。


「歩いてきているのだな」


「はい」


「送っていこうか」


「いえ。すぐそばです」


「すぐ?」


「歩いて二十分程度の」


「『すぐ』ではないではないか」


 保住は呆れた顔をしていた。


「それでも運動量は激減です。もう少し遠いところに自宅を構えればよかったと後悔しているところです」


「お前ってさ。本当に運動バカだよな」


「そうではありません。身体がなまって気分が悪いだけです」


 田口はきっぱりと頷いた。


「そうか。止めはしない。今日はもう遅い。明日に差しさわりがない程度にしないとな」


「平気です。前職では11時帰宅はざらでしたから」


 田口言葉に、保住は不本意そうな顔をした。


「田口——お前さ。それが普通だと思うなよ」


「え?」


 小柄な保住を見下ろして、田口は瞬きをした。


「ここもまた忙しい。期日に追われる仕事だ。だが、残業が当たり前ではないからな。残業はやむを得ないものとしろ」


「でも」


『上司より先帰る部下がどこにいる?』


 前職の係長の口癖。あの人と顔を合わせなくなって一か月が経つが、まだ鮮明に思い出される。田口は困惑していた。しかし彼はそこのところには深く触れなかった。


「ともかく。今日はお疲れ」


 保住はそう言うと、手をひらひらと振ってから踵を返した。そんな彼の後ろ姿に一礼をしてから、田口も歩き出す。


 保住という男は、捉えどころがない。苦手なのは確か。なにを考えているのかよくわからない男だ。優しいのか、厳しいのかもわからない。仕事も熱心なのか、熱心じゃないかもわからない。


 ——一か月が経つというのに、まったくもって捉え所がない男。


 それが正直な感想だった。


「やっぱり苦手なんだよな。あの人……。っていうか、変? 変人!?」


 田口は、はったとして口元を押さえてから周囲を見渡す。それから誰もいないことを確認して、帰路に就いた。


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