第8話 音楽




「鴫原さん。田口に中を見せてやってもいいですか?」


「どうぞ、どうぞ」


 鴫原は乙女みたいな笑みを見せて、田口たちを中に促した。本来であれば、入館料を徴収されるようだが、今日は免除してもらえるらしい。平日の日中にしては、人の気配がない。どうやら、来館者がいないようだった。


 保住は鴫原と別れて、サロンに足を踏み入れる。そこは、硝子張りの開放的な空間だった。昭和の匂いがする、花柄の布が貼られているソファがいくつも並んでいる。


 禿げ上がった頭の下には、穏やかな笑みが浮かぶ肖像画が飾られていた。


「星野一郎先生だ」


 保住はそう言った。田口は足を止めて、肖像画を見上げた。肖像画とは不思議だ。写真とも違い、なぜかその瞳で見据えられているような錯覚に陥るものだ。ぼうっとして立ち尽くしていると、「田口」と保住の声が聞こえた。


 彼はフロアを横切って、二階へと続く階段のところにいた。田口は慌てて保住を追いかけた。


 二階は、一階の様子とは打って変わって近代的な雰囲気に包まれている。二階もやはり一つの空間になっているが、中はいくつかのブースに分かれていた。


 星野一郎の人生を追うように、写真や彼の所蔵品が展示されている傍ら、彼が生涯で作曲した数々の曲名がパネルに書き出されている。


「これは?」


「ここで星野一郎の曲を全て視聴することができるのだ」


 保住はパネルの下に設置されているヘッドホンを取り上げる。田口がそばによると、彼はそのヘッドホンを田口に手渡した。


 そっとヘッドホンを耳に押し当てる。保住は手元のボタンを押す。パネルの下には曲番を選択すると、その曲がヘッドホンから流れてくる仕組みらしい。


「あ! 聞いたことありますね」


 これは。テレビでよく耳にするスポーツ行進曲だった。パネルに視線を戻すと、確かに。聞いたことがある曲名がそこに並んでいる。


「知らなかったな。こんなすごい作曲家が梅沢出身だったなんて」


「意外に知られていないからな。おれたちは、彼を世に出すために日々企画をするのだ」


 パネルを眺めていた保住は不意に田口を振り返った。


「な、なんでしょう?」


「さっき」


「はい」


「おれのことを変な目で見ていただろう」


「え? え?」


 ——いつの話?


 田口は目を瞬かせる。


「鴫原さんがおれを褒めてくれた時だ。じっと見て。お前——」


「え! おれはそんなつもりじゃ……」


「嘘だ。さっき絶対に馬鹿にしていただろう!」


 いつもは自分の気持ちを読むくせに、今回は大外れだった。だがそれでもいいのだ。まさか、保住の笑顔に見惚れていたなんて、恥ずかしくて言えるわけがない。

 

 改めて自を覚すると、顔が熱くなった。ぼんっと爆発したみたいだった。


「なぜ赤くなる?」


「い、いや。その。すみません。別に意味は……」


 顔に手を当てるが隠しきれない。保住は首を傾げた。


「お前の考えていることは、さっぱりわからん。お前、年齢詐称していないか? 29歳の若者には見えん」


「……それより、何曲か聞いてみてもいいですか?」


「話を逸らすなよ」


「そういうわけでは」


 保住は「仕方ない」という顔をして壁際にある椅子に腰を下ろした。田口はヘッドホンを耳に当て、見知った曲の番号を押す。耳に届く音源は、軽くレコードのようなジリジリとした音に乗って昭和の匂いがする。


 ——ああ、そうか。いい時代だ。どうしてだろう。この時代を経験したはずがないのに。どこか懐かしくて嬉しい気持ちになる。


 音楽のことはよくわからないが、なんだか心地がいい。田口はすっかりと音楽に夢中になっていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る