第7話 王子様




 保住に連れられてやってきたのは、市内のミュージアムだった。


「ここが……」


「そうだ。お前の予想通り。我ら梅沢市が誇る作曲家、星野一郎記念館だ」


「作曲家……だったんですね。星野一郎って」


「知らないのか?」


「名前だけですけど」


 この一か月に扱った書類の中に、この人物の名前が何度も出てきた。だが、作曲家だとは知らなかった。


 そんな調子だ。どんな曲を作曲したのかすら知る由もない。いや、違うのだ。知ろうとしなかっただけだ。興味さえあれば、いつでも調べることができたはずだ。だが自分は、それをしていなかった。


 田口は「すみません」と頭を下げた。


「梅沢市民だったら知っていると思っていた。だから敢えて調べておけとは指示しなかった。


「すみません。まだ片足しか突っ込めてません。それにおれの落ち度です。名前は拝見していましたが、調べようとしませんでした」


「素直だな」


 保住は星野一郎を知らないということを、咎めることもなく、苦笑して中に入っていった。


 コンクリート造りの建物は、ガラス張りのフロアが見える。三角屋根の様子から見ると、一階のフロア面積よりは小さいが、二階がありそうだ。


 ガラス張りの自動ドアを抜けると、受付らしきところに眼鏡をかけた女性が一人座っていた。中は薄暗く、橙色の照明が心落ち着かせてくれた。


「あら、保住さん」


「お疲れ様です」


「お久しぶりですね」


「ご無沙汰していました」


 彼はぺこりと頭を下げた。初老の上品そうな女性だった。。軽くパーマがかかった肩までの髪を一つに束ねている。赤縁の眼鏡は、彼女の知的さを表しているようだった。


「うちに新人が入ったので、ご挨拶をと思いまして」


 保住がそう言い終わらない内に、自己紹介だなと、田口は頭を下げる。


「田口です」


「あらあら、威勢のいい方。保住さんのお兄さんみたい」


「おれの二つ下ですよ。鴫原さん」


「そうなの? 保住さんもお若いから。もっと年上なのかと思った」


 朗らかに笑う女性はチャーミング。しかし、それよりなにより驚いたのは——。


「え、係長。おれより年上ですか?」


 ——てっきり。


「年下だと思ったのか?」


「すみません」


「失礼だな」


 保住はそうは言っても、顔は怒っていない。若く見られるのは嬉しいのだろうか。


 ——そうか。二つでも年上だったのか。


 上司で年下は扱いにくいが、年上だということがわかったので、なんだかほっとした。


 ——先輩は先輩か。これで割り切れる。


「田口。鴫原さんは、ここ何年も嘱託で記念館の担当をしてくれている。記念館のことなら鴫原さんに聞けばいい」


「はい、わかりました」


「まあ、そんなこと言って。私より関わっている年数が浅いのに、博士みたいに星野一郎のことをご存知じゃないですか」


「いやいや。仕事ですから。おれは」


 保住は頭をかく。自分よりも小柄だなと思っていたが、こうして女性と並ぶと、彼はそう小さくもない。


 一般的な女性よりは長身。だけど自分よりは小柄——そう言ったところか。


 保住よりずいぶんと年上の鴫原だが、保住を見る目は、恋する乙女みたいにキラキラしていた。


 保住という男は、だらしのない恰好をしているから気づきにくいが、繊細な顔立ちをしている。田舎育ちのガサツな田口とは正反対だと思った。


 線の細い体系。スマートでインドア的なタイプだ。いつもは眠そうな顔をしているが、濡れたような漆黒の瞳に、左目脇のなきぼくろが彼を幼く見せる。少し八重歯気味で、小動物みたいな愛想の良さもある。


 保住が女性だったら「可愛い」といった部類に入る顔立ちだろう。自分からしたら「やわな男」という感じだが、こうして見ると鴫原よりは長身で、彼女から見たら王子様みたいに見えるのかも知れない。


「文化課振興係は、この星野一郎記念館のイベントの企画を主にすることが多い。おれたちの扱う主要業務は「星野一郎」だからな」


「そうなんですね」


「そうなのよね」


 鴫原はくすくすっと笑う。


「鴫原さんは、いつもおれを見て笑いますよね」


「だって、楽しそうだなって思って」


 ——どこが?


 彼女は田口に視線を寄越した。


「保住さんって係長なのに、こうしてフットワークも軽いでしょう。今まで何人もの職員さんとお付き合いしたけど、こんないい人いないですよ」


「そうなんですね」


「いい人って。いろいろな意味があると思うけど」


 保住は恥ずかしそうに笑った。そのはにかんだ笑みは子供みたいだ。田口は一瞬、目を見張った。


 ——この人。こんな顔するんだ。


 保住の笑顔は、一瞬で雰囲気を明るくする。

 華やか。

 艶やか。

 そんな言葉が似合うのではないだろうか。


 目を奪われる——。まさにそれだった。



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