第34話 あなたが好きです

 貞彦は、澄香の眠るベッドまでたどり着いた。


 荒い呼吸を整えるため、椅子に座る。


 てっきり、このまま息が絶えてしまうかもしれないと恐れていたが、今はまだ、生きているようだった。


 けれどその姿は、今までとはなんら変わっていない。


 夢の中で語り合う前の澄香と、何も変わっていない。


 死の静謐せいひつさに化粧づけられた、美しき彫像のようだった。


「澄香先輩……」


 貞彦は、思わず手を握る。


 血が通っていないんじゃないかと、そう思えるほどの冷たさ。


 生きる気力が、どんどんと抜け落ちていっているのではないかと、恐怖に襲われる。


「澄香先輩。俺はまた、会いたいよ。せっかくプレゼントを持ってきたんだから、渡したいんだ」


 峰子と買いに行ったプレゼントは、きちんと持参した。


 澄香がいつ目を覚ましてもいいように、常に準備しておくことにした。


「もう眠っているのも飽きたんじゃないか? もうすぐ春が来て、外も暖かくなるよ。相談支援部で野外活動なんていうのも、いいんじゃないかな」


 貞彦は、澄香に話しかけ続けた。


 望みを繋ぐように。


 不安から目を背けるように。


「夏が来たら、今度こそ海にも行きたいな。紅葉を見たり、雪の中遊んだり。きっとまだまだ、楽しいことはたくさんあるよ」


 貞彦は話し続ける。


 澄香のことを信じて、話し続ける。


「未来を思うと、もっともっと楽しいんだ。だから――目を覚ましてくれよ」


 貞彦は、祈るように項垂れる。


 届かない思いが、空気に溶けて霧散する。


 もう出ないと思っていた、涙が出そうになってくる。


「うっ……ううっ」


 嗚咽が聞こえる。泣くことを堪えているような、くぐもった涙声。


 貞彦は驚愕に顔を上げた。


 なぜならその声は、貞彦が発したものではなかったからだ。


「澄香先輩!」


 澄香は、涙を流していた。


 ぽたぽたと雫が落ちる。


 涙は枕もとを濡らしていく。


 その姿すらも、愛おしく感じる。


 だって、澄香はまぎれもなく、生きているのだから。


「澄香先輩、意識が戻ったのか?」


「……貞彦さん」


 久しぶりに聞く声は、ひどくかすれていた。


 それでも、とても美しく聞こえた。


 生を感じさせる生々しさが含まれているからだった。


 何かを言いたそうにしている澄香を、起こして、水を飲ませた。


 赤子の世話をするように優しく、ゆっくりとした時が流れる。


 水を置く。落ち着いたのか、澄香は貞彦の方へ視線を向けた。


「……私はもう、覚悟を決めたはずでした。幸せすぎて、このまま死んでしまってもいいって、本気で信じていたはずでした」


「うん」


「でも、貞彦さんの声が聞こえたんです。その時に、私の覚悟は揺らいでしまいました。願ってはいけないと、そう思っていた未来を、思い描いてしまいました」


 貞彦はただ頷き、続きを促した。


「その時に、思ったのです。もっと生きていたいなあ、貞彦さんたちと一緒に――未来を生きてみたいなあって」


 澄香はようやく、弱々しく笑った。


 ぎこちない笑みではあったが、まるで福音のようだった。


 喜びに満たされていたはずだったが、澄香の表情はみるみるうちに変化した。


 嬉しさを携えたというよりも、不安でいっぱいといった表情だった。


「どうしましょう……どうしましょう貞彦さん」


「澄香先輩は、何が心配なんだ?」


「私はもう、人生の終焉を受け入れていました。なので、今の私にはこれからの人生プランも、目標も、どうしたらいいのかについても、何もないのです。そのことが、不安でたまりません」


 澄香は膝を抱えて、小さく縮こまった。


 今の澄香は、生まれたての赤子と変わらないのかもしれない。


 人生に対する不安も期待も、何もかも抱えている。


 貞彦は目を細めた。


 子供をあやす、親みたいな気持ちになっていた。


「何もないんだったらきっと、何だって思い描けるじゃないか。それに、一人で見つけるのが不安なんだったら、一緒に探して行こうよ」


 貞彦が言うと、澄香は少しだけ落ち着きを取り戻した。


「……そう、ですよね。少しだけ、安心しました」


 澄香は手を握ったり、閉じたりしていた。


 キョロキョロと辺りを見回す。


 自分の世界を、改めて見直しているようだった。


 生きている実感を、掴み取ろうとしているんじゃないかと思った。


 生きている。


 澄香が生きている。


 それだけで嬉しくて、愛おしい。


 貞彦は、正直な気持ちを口にすることにした。


「澄香先輩」


「なんでしょう、貞彦さん」


「好きだよ」


 幾千もの想いは、たったの一言に集約された。


 どんな反応が返ってくるのかと楽しみにしていた。


 すると、澄香は頭ごと、布団の中に隠れてしまった。


「いや、なんでだよ!」


 貞彦がツッコむと、澄香は顔の半分だけを出していた。


「……えっとその、本当ですか?」


 弱々しい声色。


 エネルギーがないというよりは、羞恥に押しつぶされているようだ。


 澄香は、耳の先まで真っ赤になっていた。


 その姿を見て、貞彦まで恥ずかしくなってきていた。


「夢の中でも言ったじゃん! それにす、好きじゃなかったらわざわざ夢の中にまで押しかけたりしないだろ……」


「私は、人生を終えるつもりだったから、何事も肯定する姿勢に、耐えることができたんです。なのでもう、私は貞彦さんが思い描いていた、澄香先輩ではいられません。それでも、いいのですか?」


 不安が顔を出しているようだった。


 貞彦はおかしくって、息をつく。


 答えなんて、初めから決まっている。


「どんな澄香先輩でもいいんだ。澄香先輩だから、好きなんだよ。だから俺と――付き合ってください!」


 貞彦は、男らしく言い放った。


 以前は断られた告白を、もう一度。


 ドキドキと鼓動は収まらない。


 貞彦はただ、澄香の答えを待った。


 そして、沈黙を保ったまま、五分が経過した。


「なんか言えよ!」


 動かない事態に焦れて、貞彦は乱暴に言い放った。


 澄香はまだ、布団から半分顔を出したままだった。


 視線は泳ぎ、焦点は定まらない。


 意を決したのか、澄香は貞彦と目を合わせた。


「……貞彦さん。あの、折り入ってお願いがありまして」


「なんだ? もうこの際なんでもいいよ」


「本当のところ、私はものすごく臆病なのです。だからきっと、色々な知識を身に付けたり、理論武装をしたりと、自身を守る術を身に着けていったのだと、自己分析できるのです」


「そうだったんだ。それで?」


「いくつか、確認したいことがあります」


「今更!? でもまあ、いいよ。それで澄香先輩が安心するんだったら」


 貞彦はぽりぽりと頭を掻いた。


 投げやりな仕草を見せているが、ちょっとだけ面白く感じていた。


 澄香は少しだけ、布団から顔を出した。


「……素直さんとはもう、キスしたりしませんか?」


 貞彦は噴き出した。


「初手それ!?」


「重要なことです。貞彦さんは知らないかもしれませんが、私はおそらく、まあまあ嫉妬深いのかもしれません」


「意外……でもないな! 心辺りあったわ!」


 生徒会で数日間過ごした後、澄香に擦り寄られたことを、思い出していた。


 そう言えばあの時に出たのは、その時に関わった女子の話題ばかりだった。


「それで、どうなんですか?」


「もちろんしない。キスをするとしても、澄香先輩とだけだよ」


 貞彦がそう言うと、澄香はまた布団に潜ってしまった。


 猫みたいだと笑いそうになる。


 澄香はまた、ひょっこりと顔を出す。


 少しだけ口元が笑っているから、少しは安心したのかもしれない。


「それなら、良かったです。次にですが、きっと前よりも感情は不安定になると思います。理不尽に怒り出したり、急に悲しみに囚われたり、貞彦さんを困らせてしまうかもしれません」


「いいよ。人間誰にでも、そういうことはあるだろうし。その方が自然だろうから、出来る限り受け止めるよ」


「急に甘えてしまうことも、あると思います。手を握ったり、胸元に潜り込んだり、子供っぽい仕草も見せてしまうかもしれません」


「可愛いじゃないか。むしろもっと、色んなところを見せて欲しいな」


「それと……」


 こういったやりとりが繰り返されて、貞彦はついに聞くことにした。


「あの……確認したいことって、あとどのくらいあるんだ?」


 そう聞かれて、澄香は質問事項を指折り数え始めた。


「おおよそですが、合計で百と八つくらいですね」


「煩悩と同じ数! 全部聞いていられるか!」


 貞彦はついにツッコんだ。


 拒絶されたように感じたのか、澄香は途端に涙目になった。


「貞彦さんは、私を見捨ててしまうのですね」


「ああもうめんどくせえ!」


「そうです。貞彦さんの言う通り、私は重くてめんどくさい女なのです……」


「ええい、こんな時に肯定するな!」


 貞彦はため息を吐いた。


 澄香のことが嫌になったわけではない。


 ただ、まどろっこしくなっただけだった。


 貞彦は、真剣な表情を作って、澄香と目を合わせた。


「これからのことは、これから考えればいいよ。二人でいて、すれ違ったり困ったことは、一つずつすり合わせていけばいいんだ。どんな澄香先輩でも、俺は好きなんだよ。だから条件や確認なんて、必要ないんだ」


 貞彦は、そう言って笑った。


 今の好きだという気持ちが、永遠のものなんて思えない。


 自分の恋ですら、楽観視していなかった。


 けれど、それでいいと思う。


 自分の幸せはきっと、形と共に変わっていく。


 時間によって、関係によって、変わっていく。


 その度々に、適切な幸せを見つけていければいい。


 そう思った。


「……貞彦さんの気持ちは、よくわかりました」


 何かを振り払うように、澄香は目を閉じて震えた。


 怯えるというよりも、武者震いのようだった。


 やがて、澄香は控えめに、コクと頷いた。


 それはきっと肯定なんだと、貞彦は理解した。


 けれど、なんだか意地悪したくなる気持ちに満たされていた。


「澄香先輩の口から聞きたいな。俺のことを、どう思っているのか」


 貞彦が言うと、澄香はさらに顔を赤らめて、瞳を吊り上げた。


「貞彦さんは、いじわるです……」


「いや、夢の中では素直に甘えてくれたじゃないか」


「あの時はもう最後だと思ったからこそ、羽目を外せたと言いますか……どうしても言わなきゃ、ダメですか?」


「言葉が心の全てではない。けれど、言葉にしてくれないと、わからないこともたくさんあるんだ」


「それは私のセリフじゃないですか……卑怯ですよ」


「卑怯でもいい。俺は、澄香先輩の言葉が聞きたいんだ。ダメかな?」


 貞彦は甘えたような声で言った。


 澄香は顔を伏せて、思案している。


 沈黙が落ちる。


 むずがゆいような、心地よい沈黙。


 貞彦はただ、澄香の言葉を待っていた。


 時計の針が動く。


 自分たちの時間が、刻まれ始める。


「正直なところ、不安でいっぱいです。それでも私は、自分の気持ちを信じます」


 澄香は、目一杯息を吸いこむ。


 差し出される右手。


 微笑み、朱に染まる。


「貞彦さん。私も――あなたのことが好きです。幸福を前提に、お付き合いをして頂けないでしょうか」


 貞彦は澄香の手を握った。


 指が絡み、ぎゅっと繋がる。


 澄香の笑みに、安心が宿る。


 貞彦は、心を込めて言い放つ。


「喜んで」

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