第33話 さようなら

 胸の中に、ぬくもりがある。


 澄香のことを、しっかりと抱きしめている。


 お互いの意思のもとで、心が交わされていると感じる。


 求めていた幸せについて、手に入ってしまったように思う。


 今はただ、幸福だ。


 満たされたと感じると同時に、頂点を極めた熱は冷めていく。


 抱きしめている澄香が、質量を失くしていく。


 澄香の姿が消えていくように、見えていた。


「澄香先輩?」


 不安に耐えられず、名前を呼ぶ。


 親を呼ぶ子供のような切実さ。


「貞彦さん。ここでもう、お別れみたいです」


 澄香は言った。


 寂し気ではなく、悲しい雰囲気もなく。


 ただ、心から幸せであるかのように。


「そんな……諦めちゃだめだ」


「諦めとは、違うんです。私にはもったいないくらい、満足しているのです」


「まだだ。まだ俺は満足してはいない。これからの人生を、色々な経験で満たしていきたいんだ。だから、死を受け入れるなんて……」


 貞彦の口が澄香の指で塞がれる。


 唇に指の腹が当たる。


 大丈夫ですと、物語る瞳が切ない。


「死が悲しいのではない。愛情の喪失、不在。それが悲しいことかもしれません。ですが、死があるからこそ、人生を――この短い人生を、駆け抜けることができる。


 終わりを思うことによって、それまでにやりたいことを望む。


 名誉を望む。


 欲求の充足を望む。


 居場所を望む。


 富を望む。


 成功を望む。


 でもすべて、終わりがあるから、尊さが生まれる。


 ずっとは続いていかない、ただ瞬間的な奇跡だからこそ、生は尊い。


 では、死とは何か。


 貞彦さん。死というものは、決して怖いものではありません。


 バッハは死を『眠りの姉』と呼んでいます。


 人生の終焉の際に、優しく頭を撫でてくれる、穏やかな休息。それが死というものです。


 生きることに希望を見出し、あるいは疲れ果て、最終的に死は訪れる。


 もっと生きたかった。


 ああ、死ねてよかった。


 もう充分だ。いい人生だった。


 人生の数だけ、感想があると思います。


 それでいいのです。どう感じたって、いいのです。


 どのような感想を抱いたって、最後には目を閉じて、まどろみの中で休むことができる。


 生に平等はないのかもしれない。


 けれど、誰もに平等かつ公正に与えられる、美しき休息。


 それが死であり、時なのです。


 私の時は、みんなのおかげで――あなたのおかげで、とてもおもしろおかしいものとなりました。


 私は、みんなにとっての澄香先輩のまま、休息につくことを望んでいるのです。


 ありがとうございました。


 そして。


 さようなら」








 澄香は消えていく。


 澄香という個体が、形を失っていく。


 自分自身の運命について、受け入れていると澄香は示した。


 澄香が望んでいること。


 なんでも肯定してくれる澄香先輩のまま、休息につくこと。


 澄香が望んでいるということであれば、受け入れるしかないのだと、貞彦は感じていた。


 自分の人生を自分で選ぶということは、死の責任ですら自分に帰せられるべきだと考えられる。


 理屈上では、納得するしかない。


 結末はただ、結末として存在するだけ。


 そこに意味をつけるのは、人間の勝手な都合なのだ。


 喜劇だとか悲劇だとか、出来事にわかりやすい名前を付けて、売り文句と共に吹聴するものでしかない。


 だから、きっと、どんな結末があってもいいのである。


 何をしても、どう終わってもいい。


 だからこそ、貞彦は決めていた。


 最後の最後まで、無様であろうと、あがいてやろうと。


「澄香先輩が、人生に意味はないことに安心したって言った時、俺にはどうも納得ができなかった。


 だって、そんなのは悲しすぎるじゃないか。


 自分の人生に、なんの意味もないだなんて。


 でも、少しだけ意味がわかったんだ。


 人生に意味を求めるから、辛くなることってあると思うんだ。


 いい人でいなきゃいけないとか。


 いい大学に入らなきゃいけないとか。


 そんながんじがらめにされたレールから外れた時、人生に意味があることで苦しみが生まれる気がするんだ。


 人生に意味がないと思ったら、どんないいことがあるのかって考えてみたんだ。


 そうなると、何をしたっていいってことになる。


 法律やルールや慣習とか、厳密には自由なんてないのかもしれない。


 けれど、しなきゃいけない不自由さからは解放されるような気がするんだ。


 だから、人生に意味はないなんて考えは、救いになるかもしれない。


 澄香先輩が見出した人生の目標は『最高に幸せな瞬間に、人生を終えること』だったはずだ。


 その目標は、否定しない。それでいいと思う。


 でも、一つだけ間違っているんだ。


 人生で最高の瞬間を、決められるわけがないじゃないか。


 これからの人生で、もっともっと幸せな瞬間が起こり得る可能性を、どうやって否定すればいいんだろうか。


 未来はもっと楽しくなる可能性を、否定なんてできないんだ。


 澄香先輩、知ってるか。


 黒田や太田くんたちが、なんだか仲良くなってるってことを。


 風紀委員はカルナが力をつけてきているし、竜也もがんばってる。まりあ先輩と良い感じにもなってるしな。


 そういえば、ネコが生徒会長になって、光樹やカナミや満だって生徒会に入っているんだ。変なメンバーですでに問題を起こしまくってるけど、なんだか楽しくなりそうなんだ。


 瑛理や紫兎やりあみゅーメンバーは……まあ相変わらずだな。だからきっと、これからも賑やかで楽しいと思う。


 吉沢くんに、安梨に、秋明も元気だぞ。澄香先輩が戻ってくることを、楽しみにしているみたいなんだ。


 三年生組だって、澄香先輩を心配している。受験で忙しいのに、俺たちのことを手伝ってくれたんだ。


 そして俺と同じくらい、澄香先輩のことを待ち望んでいる素直がいる。


 こんなにもたくさんの人に思われているんだ。澄香先輩。これはすごいことだ。


 そんな澄香先輩の人生が、どうしてこの瞬間が最高だなんて、言い切れるんだ。


 最高の幸福が訪れる可能性も、訪れない可能性も、どちらも数字では表せない。そんな計算式はない。


 だから、澄香先輩は間違っている。


 今のこの瞬間が、最高に幸せだなんて、勘違いしているんだ。


 生きていけばもっと、幸せになれるかもしれない。


 自ら求めていくから、幸福を手に入れられるんだ。


 不幸は何もしなくても訪れるけれど、幸福は意志の力が必要だって。


 幸せになるのは、難しいことなんだって思う。


 だから一緒に、幸せを探したいんだ」


 貞彦は息を切らす。


 言いたいことをがむしゃらに言い放って、息が続かない。


 澄香はずっと、微笑んでいた。


 微笑みのみを残し、何も言葉を紡がない。


 澄香は最後まで、澄香先輩としての矜持を全うしようとしていた。


 澄香の姿が曖昧となり、透明に満たされる。


 時間がない。


 貞彦は、絞り出すように口を開いた。


「澄香先輩のことは否定しない。でも、俺は諦めない。ずっとだって、待ち続けるから! もし生きてみたくなったら――幸福になりたくなったら、戻ってきてくれ!」


 澄香は何も言わず、後ろを向いた。


 顔を見られたくなかったのかもしれない。


 ただ想いが届くことを信じて、貞彦は最後に言い放つ。


「澄香先輩。待ってるからな!」


 澄香は消える。


 見えなくなり、すずらん畑に貞彦だけが残される。


 風に揺れる花弁。夢の跡だけが残る。


 世界は暗転し、崩壊した足場から放り出される。


 重力に従って、暗闇に落ちていく。


 その先には、眩しすぎる光。


 こうして、貞彦は目を覚ました。


 ほんの少しだけ、泣いた。


 生きていることの嬉しさと。


 喪失による悲しみと。


 ごちゃまぜになった心を、少しの間だけ、自由にさせることにした。

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