第32話 あなただから

「貞彦さんにとって、彼女は過去の私で、今の私が本物の白須美澄香のように見えるかもしれません。ですが、それは正確な表現ではありません」


「澄香先輩の言っていることが、今ならわかるよ」


「彼女は私の、一部分なのです。誰にも譲らない、自分自身を守り続ける、プライドという名の私。さぞかし、関わり辛かったのではないでしょうか」


「そうでもなかったよ。だって、彼女も澄香先輩なんだからさ」


 貞彦はきざったらしく言った。


 澄香は微笑む。


 澄香は、胸元で両手を重ねた。まるで感謝を告げるかのような仕草。


「貞彦さん。あなたが来てくれて、私はとても嬉しかったのです」


「誰かが心に近づいてくれたから、ってことなのか?」


「いえ、そうではありません」


 澄香は言いつつ、貞彦に視線を送った。


「貞彦さん。他でもないあなただからこそ――私は嬉しかったのです」


 澄香は、貞彦の手を握った。


 なめらかで、細身の手指。艶のある爪。華奢で折れそうな儚さも感じる。


 愛しい感触。胸に迫る。


 嬉しくなる。不安になる。


 矛盾した思いを抱えて、貞彦は口を開く。


「どうして、俺なんだ?」


 運動ができるわけでも、勉強ができるわけでもない。


 誰よりも優しいわけではない。イケメンであるとも思わない。


 お金があるわけでもない。寛大な心を持っているわけでもない。


 人と比べて誇れるところなんて、何一つ思い当たらなかった。


「それはきっと、貞彦さんが、私に対して想ってくれている気持ちと、一緒なのだと思いますよ」


 澄香は、安心を促すかのようにほほ笑んだ。


「かっこいいから、お金があるから、勉強ができるから。好きに理由を求めてもいいのでしょう。けれど、本当のところは、理由なんてどうだっていいんですよ」


 澄香は目を閉じる。


 今までの記憶や思い出が、駆け巡っているように見える。


「でも、それでは納得ができないようですので、あえて理由を付けましょうか。強いて言うのであれば、貞彦さんと出会った頃、あなたがふてくされていたからです」


「……へ?」


 貞彦は間の抜けた声を出した。


 記憶にある、澄香との出会いについて思い出す。


 浮気の末に母親が出て行ってしまったことで、貞彦の精神状態は不安定だった。


 自暴自棄になって、気分が乗らずに学校内でサボったりしていた。


 自分は世界で一番不幸な人間なんだって、そう思いながら生きていた。


 そんな中、なんだか変な先輩に絡まれた。


 それが、白須美澄香だった。


「ちょうど私も、何故かこの世界で漂うことになったタイミングだったのです。どうしていいかわからず、することも特にありませんでした。要するに、暇だったのです」


 貞彦は、少しだけショックを受けていた。


 澄香が嬉しいと言ってくれたきっかけ。


 それはただ単に、暇つぶしだった。


 貞彦の表情が強張ったことを、澄香は見逃さなかった。


「貞彦さん。そんなにショックを受けないでください。なんだかおもしろ……悲しそうな表情になっていますよ」


「おもしろいって言いかけたな。まあ、なんていうか……ってことは、澄香先輩にとって、相手は誰でも良かったのか……」


 貞彦は、自らがショックを受けた原因について、言葉にした。


 まるで運命のような、特別な相手だと思っている。


 けれど、そのきっかけなんて単なる偶然に過ぎなかった。


 仮に澄香の前に現れた相手が、黒田であったり、光樹であったとしても、別に良かったのだろう。


 特別性が否定されたことで、ショックを受けたんだと理解した。


 澄香は、貞彦の肩に手を置いた。


 しっかりしろと、激励のように。


「あの段階では、誰でも良かったということは否定できません。ですが、今は違います。貞彦さんで良かった……いいえ、より強く言うのであれば、貞彦さん。あなたでなければ、嫌なのです」


 貞彦は顔を上げた。


 柔らかさの奥に潜むのは、力強さだった。


 澄香の言葉に、嘘偽りはないのだと知った。


「説明の前に、最後のお勉強です。今のこの瞬間に拘っていた、私が言うのもなんですが。貞彦さんは、時間は存在しないと言われたら、信じることができますか?」


 澄香がまた、突拍子もないことを言い出したと思った。


 現に今、時が流れている。


 夢の中に入って、時間が経過しているからこそ、出来事が動いて澄香へとたどり着いた。


 にも関わらず、時間が存在しないという意味を、貞彦は理解できなかった。


「時間がないなんて……現に今、存在しているじゃないか」


「時間というものの特性を考えた時、いくつかの特性が浮かびます。手短に言いますと、時間は誰にでも平等であること、過去から未来へと流れること、などですね」


「なんとなく、わかる」


「まずは誰にでも平等に流れるという、単一性についてです。実は時間というものは、場所によって流れ方が違うということを、知っていますか?」


「知らなかった」


「ただ単純に、高いところでは時間が早く過ぎ、低いところでは時間がゆっくりと過ぎる」


「そんなバカな」


「そう思うかもしれませんが、それがこの世界というものの在り方なのです。たったこれだけの事実で、時間と言う概念から、絶対的な単一性というものがなくなります」


 澄香が言うには、時間は誰にでも平等というのは、嘘っぱちだった。


 場所によって流れ方が違うのであれば、誰に対しても平等な時間というものは存在しなくなる。


 貞彦は衝撃を受けていた。


「次に、時間というものには、実は方向性がありません。過去から未来へと流れるものだという考えは、実は適切ではないのです」


「それについては、よくわからない」


「もしも出来事をミクロレベルで把握するならば、この世界を構成している一つに、視認すらできないくらい小さな量子というものが存在します。量子の変化から変化の流れを時間だと考えることは自然なように思います」


「過去と未来をわかりやすく見るんだったら、原因と結果で判断できるのかもしれないな」


「しかし、出来事をミクロレベルで把握した時に、どちらが過去で、どちらが未来かなんて区別はつかないのです。無数の量子が配列されている状況が、ただ単に二つあるだけ。原因と結果について、判断をする材料はないのです」


「じゃあなんで、俺たちは過去と未来なんてものを区別できるんだ? 区別できるってことは、現に存在するっていうことじゃないのか?」


「概念としては存在します。ですが、量子レベルの小ささで見た時に、その配列に意味などない。例えば、白須美澄香が生きている現在と亡くなっている現在。流れや因果などというものから見たら、過去と未来の区別はつきます。けれど、量子の配列というレベルで見た時に、それはただ単なる違いでしかない」


 貞彦は押し黙った。


 理解を超えるほどの情報に、ただただ圧倒されていた。


「過去と未来は、私たちが勝手に作り出した概念なのです。世界にはただ、無数の出来事があるだけ。そこに時間という変数は関係なく巻き起こる。それが『時間は存在しない』という書物において、カルロ・ロヴェッリが出した結論です」


 澄香は一度呼吸を整えるように、一拍置いた。


「ようやく、本当に私の言いたいことに辿り着きました。相変わらず回り道の多い語り口であることを、ご容赦くださいね」


「時間が存在しないってことを、理解できてはいない。でも、おそらくはそうなんだろうなってことだけは、わかったよ」


「では時間とはどこに存在するのか。


 それはもちろん、私たちの中です。


 時間が存在しないという事実は、世界の色合いを灰色に染め上げたりはしません。


 時間が存在しないとしても、世界の美しさはなんら色褪せることはないのです。


 カルロ・ロヴェッリは、今は亡き師について、同著の中でこう言っています。


『不在だから悲しいのではない。愛着があり、愛しているから悲しいのだ。愛着がなければ、愛がなければ、不在によって心が痛むこともない。だからこそ、不在がもたらす痛みですら、結局は善いもの、美しいものなのだ。なぜならそれは、人生に意味を与えるものを糧として育つのだから』


 私たちが、時間と呼んでいるもの。


 ただの量子の配列された偶然。私と貞彦さんが出会った偶然。


 そして、ここまでの軌跡は、私と貞彦さんだけの、特別な時間なのです。


 私が暇を持て余した時に、隣にいてくれたのはあなたでした。


 人の相談に乗ろうなんておかしなことを考えた時、付き合ってくれたのはあなたでした。


 正しい時も間違えた時も、ついて来てくれたのはあなたでした。


 珍しく心を許したのも、気まずさを味わったのも。


 そして、初めて心を通わせたのも、あなたでした。


 星の王子様とバラのような思い出が、私とあなたの間にもあったのです。


 初めから、特別だったわけではない。


 思い出を重ねたから、時間が積み重なったから、特別になったのです。


 それでは、ここで問題です。


 こんなめんどくさい私と、時間や思い出を重ね、特別な存在となった人は、一体どこのどなたでしょうか?」


 澄香は問いかける。


 わかり切った答えを、促していた。


 消えていた自信を、取り戻していく。


 今なら、胸を張って言える気がした。


 貞彦は、真っすぐに澄香を見据えた。


「それは、俺だ」


 答えると同時に、胸に衝撃を受ける。


 澄香は、貞彦の胸に飛び込んでいた。


 安心感に満たされる。


 祝福の鐘のように、揺れているすずらんが見える。


 澄香は、甘えるように言った。


「はい、正解です。私の特別な――貞彦さん」

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