第31話 どんなあなたでも
唇が離される。
突然のことに、混乱してついていけない。
「な、な、な、なんてことを」
漏れ出したのは、情けない声だった。
素直は真っ赤になりながらも、楽し気にバックステップを踏む。
悪戯を成功させた、子供の如き無邪気さ。
「えっへっへー貞彦先輩! けんとーを祈る!」
素直は敬礼のポーズを決めて、徐々に見えなくなっていった。
「ちょっ!? 爆弾だけ残して消えるなー!」
貞彦のツッコミも虚しく、素直はすでに消えてしまっていた。
行為の意味合いも、感情も、全て投げっぱなしにされた。
心が追い付かずに、貞彦はただ途方に暮れていた。
何故か突然、寒気に襲われた。
「………………久田さん」
感じた寒気は嘘じゃなかった。
ロボットのようにぎこちなく、首を後ろに回す。
怒りを擬人化させたような面持ちの、澄香が仁王立ちをしていた。
「ひぃいいいいい」
「人の家の庭で、何を破廉恥なことをしているんですかああああ!」
澄香の怒鳴り声を、生まれて初めて聞いた。なんだか新鮮な気持ちになった。
「いや、誤解だ」
誤解でもないのかと貞彦は思ったが、咄嗟に口をついて出た言葉はそれだった。
「言い訳なんて聞きたくありません! なんなんですか、なんなんですか本当にもー!」
澄香は地団太を踏み始めた。
あの澄香の語彙力が死んでいる。回りくどいところもあるが、言葉を尽くすことに余念のない、あの澄香がである。
そう考えると、笑ってはいけないという命令に反して、笑いたくなってくる。
「ははっ……あーはっはっはっは」
堪えきれず、貞彦は笑い出した。
澄香は一瞬呆気にとられたが、瞳がさらに吊り上がった。
「何が可笑しいんですか! 馬鹿にするのも大概にしてください」
「いや、ごめん。あの白須美さんが言葉が出ないのが、なんだかおもしろくって」
「むきいいいいい」
澄香はついに、むきーとか言い出した。
こんなにもヒステリックになっている澄香なんて、もう拝めないのかもしれない。
澄香は今まで、様々な感情を笑顔で表現していた。
笑みの中に潜む感情は、注意深く観察しないと見えてこない。
そんな澄香が、感情をむき出しにしてわめいている。
いじわるな気持ちではなく、なんだか楽しかった。
自分の知らない澄香の表情を、もっともっと見てみたいと貞彦は思った。
「澄香先輩って、そんな顔も出来るんだな。驚いたよ」
貞彦が言うと、澄香は見る見るうちに赤くなった。
感情をむき出しにしていることが、恥ずかしくなったのかもしれない。
「……見ないでください」
「え?」
「……見ないでくださいって、言っているんです……」
澄香はしゃがみこみ、膝を抱え始めた。
「別にいいんじゃないか。怒ったり取り乱したりするのは、誰にでもあることだし」
子供をなだめるように言ったが、澄香は首を振った。
「ダメです。こんな無様な姿、人様に見せられません」
「それは、どうしてなんだ?」
貞彦が覗き込むと、澄香はわずかに顔を動かした。
気丈さを保ってはいるが、どこか弱々しく見える。
「だって……私が私では――なくなってしまうじゃないですか」
強情な仮面が、剥がれ落ちたような気がした。
白須美澄香が、白須美澄香でなければいけない。
孤独で醸成された頑なさ。
自分で作り上げた像に、合致するように当てはめている。
自分で自分を、縛り上げているようだった。
「誰よりも強く、誰よりも賢く、誰よりも孤高でなければいけない。それが、白須美澄香なんですから」
澄香はそう言って、貞彦の方を見た。
まるで縋り付くような表情だった。
肯定して欲しくも、かといって否定して欲しくもなさそうだった。
何が正解なんてわからない。当の澄香本人も、どうして欲しいのかわかっていないようだった。
貞彦は意を決して、言い放つ。
「澄香先輩、それでいいんだ」
貞彦は、肯定する。
澄香がすがりつく頑なさも、凝り固まったプライドも。
すべて、肯定した。
「そのプライドを大事に守り抜いてもいいし、感情を素直に出していくような生き方でも、どっちでもいいじゃん」
「……でも」
「澄香先輩は自分で決めたんだろ? そうやって生きていくって。人生に意味なんかないけど、孤高に生きていくんだって。それのどこがいけないって言うんだ」
澄香は押し黙った。
予想していた言葉とは、まるで違う言葉が返ってきた。
わかりやすい説教だったり、価値観の押し付けが返ってくるのだと思っていた。
でも、すべてを肯定されてしまった。
それでいいんだと、許されてしまった。
呆気にとられた澄香を見て、貞彦は微笑んだ。
優しく、穏やかな笑み。
「俺は、どんな澄香先輩でもいいんだ。怒ってても、つんけんしてても、めんどくさくても、実はけっこうお茶目でも、ほんとは臆病でも、なんでもいいんだ」
貞彦は、照れくささを隠しつつ、言った。
「だって俺は――白須美澄香が、大好きだからさ」
貞彦は言い放った。
嘘偽りのない気持ちを、言い切った。
なんだか、晴れやかな気分だった。
すずらんの花が揺れる。
祝福の鐘のように、思っておけばいいのだ。
そうやって都合よく解釈して、全然構わない。
だって今のこの瞬間は、とてつもなく幸せなのだから。
「……そんな急に言われても、信用できません」
ストレートな告白を受けても、澄香はまだ訝しげだった。
貞彦は、どかっと腰を下ろした。
「わかった。話をしよう、澄香先輩」
「何をですか?」
「なんでもいい。ただの雑談でも、正論でも、許せないことでも、楽しいことでも、なんでも」
「私と話をしても、楽しいことなんてないのかもしれませんよ?」
「楽しいかどうかも、どうだっていいんだ。俺は澄香先輩と話がしたいんだ。ただ、もっとあなたのことが知りたい」
真剣な眼差しを受けて、澄香はふうっとため息をつく。
おっかなびっくりながら、澄香は貞彦の隣に移動した。
人が二人ほど座れるくらい、まだ距離は開いている。
でも、貞彦は嬉しかった。
隣にいてもいいんだと、許されたような気がした。
「そう言ったからには、私は止まりませんよ」
「ああ。望むところだ」
貞彦は頷く。
澄香は、挑戦的な笑みを見せた。
「後悔しても、知りませんよ。覚悟してくださいね」
それから澄香は、三日三晩話し続けた。
世の中に対する不満。
他者に対する見下したような発言。
自身の感情の吐露。
貞彦はただ、頷いて聞いていた。
肯定も否定もせず、ただ耳を傾ける。心を傾ける。
嫌な気持ちを話し終えたところで、今度は楽しいことや好きなことなども話し続けた。
話すことがどんどん少なくなってくると、ついには思い出について語り始めた。
頑なで、自分に似ていた父のこと。
不器用だったけれど、やっぱり生きていて欲しかったこと。
幸せだった、母についてのこと。
私はあんな風にはなれないと、羨ましく思っていたこと。
そして、幸福を求めていること。
澄香は話し続ける。
貞彦は聞き続ける。
ダンスを踊るようなコンビネーションで、やりとりは続いていく。
無限に続くかのように、思える。
無限に続いて欲しいとすら、思ってしまう。
そして、音楽が止まるように、沈黙が訪れる。
貞彦と澄香は、すずらん畑に目を向けていた。
夜が明ける。日が照り始める。
朝焼けに照らされて、すずらんの花が緋色に染まっている。
「……綺麗ですね」
「だな」
ただ綺麗だと思った。
綺麗なものを見ているだけで、幸せだと思った。
「ありがとうございます……貞彦さん」
澄香は、はにかみながら言った。
貞彦は驚いて、澄香の方へ視線を向けた。
しかし、揺れるすずらん畑があるだけだった。
もうすでに、澄香の姿はそこにはなかった。
貞彦は寝転がった。
「やっと……終わった」
達成感よりも、疲労が勝っていた。
頑なで孤高だった、過去の白須美澄香。
想いをひたすらに吐露したことで、ようやく満足してくれたんだと理解した。
このまま眠ってしまえそうなくらい、どっと疲れている。
ここで眠ってしまえば、きっと現実に帰れるのだろう。
そう思った瞬間、影が貞彦に重なった。
「よくがんばりましたね。貞彦くん」
三つ編みに眼鏡の、どこか幼さの残る少女。
過去の姿の峰子が、貞彦を覗き込んでいた。
「あれだけ強情だった白須美先輩を満足させただなんて、お見事ですね。これで、ミッションは達成ですね」
峰子は、貞彦に笑顔を向けた。
「いや、まだだ」
貞彦は起き上がって、そのまま峰子を抱きしめた。
壊れないように優しく。
でも、離さないように強く。
「どうしたのですか、貞彦くん。あなたが抱きしめる相手は、私ではないはずです」
「いや、間違ってなんかいないさ。そうだろ――澄香先輩」
三つ編みがほどけ、眼鏡は外される。
観念したような笑い声を、貞彦は捉えた。
「ふふ。よくわかりましたね、貞彦さん。でもどうして、私が実根畑さんではないと、わかったのですか?」
「そりゃわかるさ。澄香先輩のことを、ずっと見続けてきたからな」
自分のことをミネミネと言ったり、からかうような言動が多かったりと、峰子に対する印象と比べて、違和感があった。
それに、ヒントを出してくれる時の得意げな顔も、なんでも肯定してくれる姿勢も、穏やかな笑みも、全部全部覚えていた。
それに、素直の話を聞いたことで、確信した。
峰子はずっと、起きていた。夢の中にいるのは、貞彦一人だけだった。
夢の中に峰子がいないのだとすれば、夢で出会った峰子が誰なのかなんて、もう一人しかいない。
「あらあら。騙し通せなかった、私の負けということですね」
負けと言った割には、口調は弾んでいた。
どこか嬉しそうな声色。
かくれんぼで見つかった時の、どこか安心する感覚。
貞彦は、にやっと笑った。
「やっと見つけたよ。澄香先輩」
澄香も、目を閉じて笑った。
「はい。見つかってしまいましたね。貞彦さん」
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