第10話 想いはここにある

 貞彦は、一旦ファイルを閉じた。


 景色が滲んで、何も見えなくなっていたからだ。


「澄香先輩……こんなところに、いたんだな」


 あった。


 ここにあった。


 雲に隠れたように不鮮明で、秘められた思い。


 知りたくて仕方がなくて、焦がれて思い止まない。


 澄香の本当の気持ちが、ここにあったのだ。


 なんでも肯定してくれる。


 いつも笑顔で接してくれる。


 聡明で理知的な判断を下せる。


 けれど、そういった澄香の像は、澄香自身を隠してしまっていると、貞彦には感じられた。


 イメージの裏側にある澄香自身に、本当も嘘もない。どれも本物の、私なんですよ。


 澄香ならそう言いそうだなと、貞彦は思った。


 貞彦は、本当の澄香の一部分を、見つけることができたと感じた。


「澄香先輩も、悩んだり戸惑ったりしながら、やってきたんだな」


 貞彦は、自分自身の不安が、収束していくのを感じた。


 考えても詮無いことだとは理解していた。けれど、気にせずにはいられなかった。


 白須美澄香は、久田貞彦のことを、どう思っているのか。


 好きだって言われたとしても、完全に信用できるわけじゃない。言葉は曖昧で、嘘だってつけてしまうから。


 でも、少しだけでも安心ができる。


 自分が好きであることと、相手が自分を好きであることに、本来なら関連性などない。


 自分は自分で、相手は相手。


 相手に嫌われていたとしても、自分自身の好きな気持ちとは関係がないはずだ。


 理屈上はそうだとしても、心はそうもいかない。


 自分が好きだって思う相手にも、自分のことを好きでいてもらいたい。


 単純明快なワガママ。


 でもきっと、自然な気持ち。


「澄香先輩……」


 ファイルを抱きしめる。


 揺らいでいた気持ちが、一斉に前を向く。


 消えかけていた炎が、再び灯り始める。


 澄香先輩に会いたい。


 会ってどうするなどのプランなどまるでない。


 それでもただ、会いたい。


 会いたくて会いたくて、たまらなかった。


「貞彦先輩……って泣いてる!? え、えっ、大丈夫?」


 部室に入ってきた素直が、貞彦を見つけて狼狽しだした。


 泣きながら何かを抱きしめている先輩に対し、心配な気持ちが湧き出てきたらしい。


「素直、大丈夫だ。これ……」


 駆け寄ってきた素直に、貞彦はファイルを見せて説明を行った。


 素直は貞彦が泣いていた理由について、理解を示した。


 そして二人で、澄香の残した便箋を読み始めた。


『湊紫兎さん。天才ボーカリストでありながら、ひねくれたペシミスト。


 でも本当は、誰よりも人の可能性を信じて、自由を愛する前向きな思想の持ち主なのだと感じました。


 暗澹あんたんたる思いをまき散らしているようで、誰よりもロマンチストなのでしょう。


 もしも出会っている時が違えば、タイミングが違えば、私の人生にも、影響はあったのかもしれません。


 それにしても、お泊り会の時はおもしろかったですね。


 友達が少ないことが特徴だった貞彦さんにも、たくさんの仲間が出来たように思います。


 カナミさんや渡会さんに触発されてか、素直さんまで貞彦さんに甘えていたように見えました。


 紫兎さんも、貞彦さんへの思いは満更でもないようですし、とてもおもしろい展開です。


 おもしろい展開……そのはずです。


 でもどこか、ぼんやりとしたもやもやを感じたのかもしれません。


 それもきっと、紫兎さんの歌のせいですね。


 ミュージックフェスティバルでの熱狂は、恋の熱を浮かせていました。


 素直さんの熱っぽい瞳が捉えていた先。


 そのことについて考えた時に、私の心は、燃え上がっていたように思います。


 私はきちんと、隠し通せていたのでしょうか。


 思わずしてしまった、耳たぶへのキス。


 その意味を考えてしまうと……はしたない。ああ』


『吉沢さんの依頼に関しては、少し悔やまれるところがありますね。


 まるで彼の気持ちを利用してしまったかのようで、少々胸が痛みます。


 とはいえ、貞彦さんと素直さんの、如実な成長を実感できたことは、とても良かったことのように思えます。


 唐島さんの協力があってのこととはいえ、二人はやり遂げました。


 体育祭の勝利ではなく、自らなりの正しさと、強さの証明を。


 正しいことに関しては、何が一番正しいのかといった問いに意味はない。


 その場その場に適切な、正しさがあるはずだから。


 となると、正しさとはどうやって測るのか。どうやって客観的に見極め、判断の一助として何を提供するべきなのか。


 その一つこそがきっと、強さになるのです。


 勝ったものが正しい。強いものが正しい。


 それは完全なイコールでは結べないかもしれない。


 けれど、そこには説得力があり、力がある。


 弱いことに価値がないわけでは、決してない。


 しかし、正しさを貫くためには、強さは必要になってくる。


 貞彦さんも素直さんも、強くなりました。


 私から見ても、二人はもう大丈夫だ。そう思えるほどに。


 そして、生きているまぶしさに、目が眩むほどに。


 人生に意味なんてない。


 そんな私に、もしも意味をつけられるとしたら、可愛い後輩たちに、何かを受け継いでいくことなのかもしれない。


 終わりが近付いてきている。


 待ち焦がれていた終わり。


 でも今は、少しだけ、来て欲しくないと思ってしまう。


 ワガママですね、私。


 ……それにしても、つい勢いでなんでもすると貞彦さんに宣言してしまいましたが、一体何をさせられるのでしょう。


 少し、どきどきします』


『安梨さんについての出来事は、私自身も、信じ難いの一言です。


 でも、自然とあふれ出た言葉は、何よりも的を射ていたように思います。


 この世ではなんだって起こり得る。


 この言葉は安梨さんについての奇跡を表している。


 と同時に、きっと私の願いでもあったのかもしれません。


 物語を生んだ人間と、生み出されたキャラクターの邂逅。


 どこまでもファンタジーな出来事。


 ちっちゃな願いでも叶うんだという、希望の息吹。


 まるで、動くようにと念じた人形が生命を宿したという、ピグマリオンのよう。


 言葉が出来事を作り、意味の場が全ての存在を肯定する。


 そう考えた時に、淡い期待を抱いてしまうじゃないですか。


 過去はもう過ぎ去ったもので、未来はまだ存在しない。


 不確かな今しかない私にも、もしかしたら幸福な未来なんてものが、あるのかもしれないなんて。


 夢を見すぎだということは、わかっています。


 どこまでも真っすぐで、自分の思いを貫き続ける素直さん。


 彼女の強さを、まばゆさに嫉妬すらしてしまう。それほどの輝きの、行きつく先を見てみたい。


 そして、貞彦さん。


 全てに対して距離を置く私に対して、臆しても近づいてきた不思議な人。


 貞彦さんはきっと、知らないことでしょう。


 近くまで来てくれて、理解をしてくれて、それでも受け入れようともがいていた姿。


 そんな貞彦さんが、どれだけ私の支えとなってくれていたのか。


 きっと、知らないでしょう。


 それでいいのです。


 私の役目はきっと、終わりました。


 人生の中で果たすことのなかった、幸せな夢は覚めてしまいます。


 胡蝶の夢ならぬ、幸福の夢。


 夢はいずれ覚めるもの。


 私がいなくなった後の、彼らの幸せを願ってやまないです。


 貞彦さん。


 素直さん。


 ありがとう。


 そして、これからも幸せに、進んでいってください。











 ……ダメですね。


 ここに弱音でも吐かないと、終われそうにありません。


 不格好でも、仕方がないです。


 一言だけ、吐かせてください。


 幸福に生きる未来――幻だとしても、欲してしまうことは、許されないでしょうか』






 澄香の言葉は、ここで終わっていた。


 読み終えた二人は、無言で涙を拭った。


 お互いを見つめ、同時に頷いた。


「なあ、素直」


「なにかな」


「正直さ、諦めかけていた部分もあったんだ」


「そうだね。ヘタレだもんね」


「……でもな、これでハッキリと決心がついた。澄香先輩を、諦めてたまるもんかってな」


「わたしは最初っからそのつもりだよ。貞彦先輩は今更だね」


「俺は素直ほど強くはないんだ。けど、それでも、俺は俺でいいって思うんだ。俺は俺を、全力で肯定する」


「うん。そんな貞彦先輩ならけっこう好きだよ」


「そういえばさ、素直には言ってなかったっけ。サヤには言ったんだけど」


「えーなにそれ? わたしが聞いていないなんて貞彦先輩は水臭いぞ」


 ぷんぷんと怒る素直に対して、貞彦は恥ずかし気に笑った。


「俺って案外――ハッピーエンドが好きなんだよ」


 気まずくて頭を掻く貞彦を見て、素直は無邪気に笑った。


「それはすごくいいね。それじゃあ改めて探そうよ。わたしたちの――ハッピーエンドをさ!」

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