第9話 澄香先輩の残滓 本当のきもち
貞彦は一人、相談支援部室に来ていた。
わずかにほこりっぽい。
部活動のある日は、毎日使用していた。
けれど、一回も掃除をしたことがなかったことに思い当たる。
掃除をしようにも、ほうきとちりとりの場所がパッと出てこなかった。
部屋の隅に掃除用具入れがあった。あまり開けていなかったのか、扉がわずかに軋む。
一通り地面を掃き、チリやホコリを集める。
一息ついたところで、コーヒーをいれようとしたが、粉が見当たらなかった。
瓶のコーヒーではなく、粉を集めて円錐形の器機にお湯を注いでいた光景を思い出した。ドリップといういれ方だったんだろうと、初めて思い当たった。
お茶の補充もされていない。その他の備品も足りなくなっている。掃除もロクになされていない。そういえば澄香から教わった気がするけれど、すっかり忘れてしまっていた。
この現状を認識して、貞彦は気づいた。
今までは人知れずに、全て澄香がやっていたのだ。
「知らないところで、随分と助けられていたんだな」
貞彦は、一人呟いた。
彼女と別れて自由を手に入れたのに、ふと寂しくなったという歌を思い出した。
精神面だけでなく、ただ部活動に参加をする。たったそれだけのことも、澄香の力があったから、なされていたんだということを、貞彦は実感していた。
「よし」
澄香がいないと、何にもできないわけじゃない。
そう証明したいという、よくわからない気持ちも、湧き出てきた。
貞彦はとりあえず、書類や備品の整理から始めることにした。
雑多におかれた物を片付け、ホコリにまみれた棚を、雑巾がけして綺麗にしていく。
ごみ箱の中身を片付けて、ごみ袋にまとめる。
棚に置いてある書類やファイルを、順番に並べ替える。
「おっ」
整理の最中に、あるファイルが目に留まった。
基本的には澄香しか触らない、契約書が納められたファイルだった。
ただの部活動にして仰々しいそれは、澄香以外が見ることはなかった。
見たところで、その意図や意味について、貞彦と素直にはわからない。
時折、澄香が取り出して眺めている姿が、脳裏をよぎった。
ただの簡素な紙でしかないはずなのに、澄香は時々、少女のような笑みを寄せていた。
貞彦は何げなく、契約書のファイルを手に取った。
澄香がどうしてそんな顔をしていたのか、知りたくなったからだ。
澄香の机に座り、契約書のファイルを開いた。
契約の目的、行うこと、個人情報の保護。
堅苦しい文章が続き、下の方には、今まで相談に乗ってきた相手の署名と捺印がされていた。
「ほんと、本格的だよな」
実際に眺めてみても、がちがちに縛られた契約に必要な文章しか見えてこない。
小説や教養書とは違い、その文章からは、作成者の心情や情緒が見いだせなかった。
「黒田って、身長や態度だけじゃなくて、字まででかいんだな」
貞彦は謎の関心を得て、何気なく黒田の契約書をファイルから取り出した。
すると、契約書だけでなく、手書きの便箋も零れ落ちてきた。
「わっと」
貞彦は慌てて、便箋を拾い集めた。
拾い上げる時に、中身が見える。
真っすぐ芯の通った、それでいて柔らかな文字。
澄香の字だった。
そう認識するや否や、貞彦は便箋を読みだしていた。
『黒田さんとの件については、私にとっても良い学びとなりました。貞彦さんや素直さんのまっすぐな気持ち。
自分勝手な気持ちではなく、相手を思う気持ちを優先して欲しいという熱い思い。
その思いに触れることができて、私はとても嬉しかったな。
結果的に、全てが丸く収まりました。結局のところ、綺麗な花を精一杯愛でた、王子様が二人いただけ。
そんな、素敵なお話だったんだと、私はそう思いました』
『甲賀さんとまりあさんによる依頼もまた、面白いものでした。
それに、貞彦さんと素直さんがもっと仲良くなったようで、ほんとうにおもしろ……素敵なことだと思いました。
とはいえ、実根畑さんに任せたことに関しては、安心が半分、不安が半分でした。
相手のことを信じて物事を任せる寛容さ。必要なところを教えて、実際にやってみて評価するといった、人を育てるための一連のシステム。彼女の能力的には、何も憂いなどないのですが……。
文章の中でくらい、認めてしまいましょう。
貞彦さんも素直さんもいない部室は、なんだか寂しい。
だから貞彦さんが帰ってきた時に、嬉しくってつい、あんなことを……。
本当はいけないことですが、ここが貞彦さんにとって帰る場所になったのかなと、そう思いました』
『香田さんと猫之音さんとの関わりについては、また新たな見解を得られたような出来事でした。
まさか人の夢に入るなんて、とても摩訶不思議な体験ですね。
渡会さんも何気に、物凄いことを考え付くものです。
どんなに正しいと思うストーリーが完成したとしても、それが正しいとは限らない。なるほど、渡会さんのご指摘は、この件に関しては正しかったです。
猫之音さんにトラウマなどはなく、ただやりたいようにしていただけ。
今回の件は、私にとっても、非常に勉強になりました。世の中はまだまだ不思議なことで満ちていて、思ったより退屈しないものですね。
それにしても、貞彦さんが言わなかった夢の内容とは、一体どういったものだったのでしょう。
黙秘する権利は、もちろん貞彦さんにもあります。
けれど、どうしてでしょう。
そのことを知りたいなって思ってしまう、私がいます』
『瑛理さん巡る出来事については、私たち自身の関係性をも考える、ターニングポイントになったのかもしれません。
私もついに、言ってしまいました。
私の考え。私の思い。私の生き方。
言わずには、いられなかった。
それもこれも、貞彦さんが悪いのだと、結論付けることを許してもらいたいです。
だって思いのほか、楽しかったから。
特別な誰かと過ごす時間が、思った以上に、楽しかったから。
あの場面において言うべきではなかったのかもしれない。そういった、後悔もあります。
けれど、言ってしまいたかった。
本当に、それだけだったのでしょうか?
誰も見ていないこの便箋の中で、隠し立てをするのも野暮ですね。
知ってくれて、理解してくれて、そして、受け入れて欲しかった。
そんなワガママな気持ちが、大いにあったんだろうと思います。
思わぬ中断があったことで、生じた気まずい時間も、きっと必要なものだったんだと、今であれば思います。
だって、貞彦さんと会えなかった空白の時間が、再会後の気持ちを盛り上げることに寄与したのでしょう。
会えない時間が愛育てるのさ。
そう歌われた気持ちが、少しだけわかるような気がします。
……日記のようなものとはいえ、私が愛という言葉を使うだなんて。滑稽なような、こそばゆいような。
愛なのかどうかは、正直なところわからないですし、別に貞彦さんのことが好きなわけじゃないんですからねと、いわゆるツンデレのような言葉で、とりあえずは語っておきましょう。
全く、誰に対する言い訳なのでしょうか。
本当に私は、欲張りでいじっぱりでプライドが高くて、それでいてワガママな女なのだと、思い知らされます。
それでも、そんな自分でもいいのかもしれないと、少しだけ思えるようになりました。
自分の好きなように生きるということは、自分自身に対する肯定の気持ちが必要となるでしょう。
不器用でも、他人に迷惑をかけても、本当は傷つきやすくても、それでも自分は自分でいいと言い放つ、おもしろい方とも出会えたことですし。
誰かと関わり合うことは、自分自身の学びへとも繋がる。
もっと早く知っておけばと、少しだけ悔やまれます。
今回は、やたらと長くなってしまいましたね。
次回もまた、楽しく波乱万丈な日々を。
新たな理解と学びを、期待しましょう。
私自身が運命にからめとられ――消えてなくなるその日まで』
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