エピローグ ハーフハッピーエンディング

 貞彦は目を覚ました。


 夢み心地のふわふわ感を、まだ引きずっている。


 見渡す。


 誰もいない。


 貞彦以外、誰もいなかった。


 シンプルだが、幅広のベッド。純白のシルク。レースの刺繍がほのかにおしゃれを演出している。


 もちろん、貞彦が使っているベッドではない。


 事実を認識する前に、感覚として理解した。


 ああ、もう、いないんだな。


 再びベッドに倒れこむ。


 恥ずかしさと幸せを連れてくる香りは、まだ残っている。


 いつも使っているであろう、澄香の枕。


 手を伸ばし、ためらう。


 でも、もう本人はいない。


 そう思い、貞彦は澄香の枕を抱きしめた。


 天井を眺める。


 もう二度と、見ることはないのだろう。


 貞彦は、右腕で顔を覆った。


 瞳の裏からは、思い出が溢れてくる。


 貞彦は一人、呟いた。


「プレゼント……渡せなかったな」











「そうですか……白須美さん……いえ、白須美先輩は最後には、幸福でいたんですね」


 貞彦の話を聞いて、峰子は言った。


 貞彦と峰子は、学校の屋上にいた。


 瑛理の騒ぎがあったことで、屋上の鍵は新しいものに交換された。


 鍵の保管は当然教師が行ってはいるが、元生徒会長特権として、鍵の在処を峰子は知っていた。


 卒業前のちょっとしたいたずらとして、峰子と貞彦は屋上へと足を踏み入れていたのだった。


「ああ。澄香先輩のことについて、全部が納得できているわけじゃない」


「受け入れがたいことだと思います。私だって、思い出したことで愕然としました」


 澄香がいなくなったと同時期に、峰子は曖昧だった記憶を取り戻していたらしい。


 一年生の頃に生徒会に選ばれた。そこで澄香と出会った。


 表面的には優しく、けれど、冷徹な正論で突き刺す力強さもあった。


 そして、誰よりも生き急いでいる。


 そんな焦燥感を携えている。澄香はまるで、稲妻のようだったと、峰子は感じていた。


 誰よりも孤高で、誰よりも煌びやか。


 儚く、刹那的。


「でも今は、私の感傷については些細なことです。貞彦くんは、大丈夫なんですか?」


 峰子は、心配そうに貞彦を覗き込んだ。


 貞彦は、虚ろな表情で風景を眺めていた。


 峰子の不安は募り、一歩近づいた。


 どうすればいいかわからず、おろおろしていると、貞彦は峰子の方へと振り向いた。


「ごめん……峰子先輩を困らせたいわけじゃないんだ」


「いえ、私のことはどうでもいいです。この出来事に一番ショックを受けているのは、貞彦くんでしょうから」


 峰子は俯いた。


 そんな峰子の姿を見て、貞彦は笑みを浮かべた。


 口元だけでも、無理やりに笑みを。


 澄香ならきっと、こうすると思ったのだ。


「澄香先輩は最後、幸せだったと思うんだ」


「……はい」


「澄香先輩の感じてきたことや、辿ってきた道のりを全部理解することなんてできない」


「ええ。それは誰にもできないでしょうね」


「誰よりも幸せになりたくて、でも、そんなものは意味が無いって、澄香先輩は思って」


「白須美先輩の言うことを、全部は認められないっていう抵抗感はあります」


「峰子先輩がそう言うのも、無理はないよな。澄香先輩の理論が正しかったとしたら、生きることが虚しいってことも、なんだかわかっちゃうもんな」


「だからこそ、抗うんでしょうね。やりたいことをして、なりたい自分になろうとして。そして虚しさや意味のなさから目を逸らし続ける。それもまた……幸せの形として、否定はできない」


「だからきっと、澄香先輩はこだわっていたんだな。幸せの絶頂ってものに」


「これ以上にないくらいの幸せを味わった後も、人生は続いていきます。でも、これ以上が望めないと思っているこれからを、果たして愛おしく感じられるのでしょうか」


「これからこれ以上の幸せなんてない、か。そう考えると……人生って長いよなあ」


 貞彦はため息を吐くように言った。


 白煙が空に溶ける。


 この空のどこかに、澄香先輩はいるのだろうかとか、感傷的なことを思った。


 峰子は貞彦の隣に立つ。


 欄干に手を置いて、一緒に空を眺める。


「『一日をこんなに長く感じるのに、一年はこんなに早く過ぎてしまう』」


「……確かに、その通りだな」


「『一年をこんなに早く感じるのに。一生をどんなにうまく、生きれるでしょう』」


「生きることの不安とか、儚さを感じるな」


「とある歌の歌詞ですが、この切なさがけっこう、好きだったりするのです。うまく生きたいと思っているうちに、気が付いたら過ぎ去ってしまいます。長くなんて、ないかもしれませんよ」


「そっか……」


 貞彦は、目を閉じる。


 涙はなんとか、枯れ果てた。


 雫が全部零れ落ちて、思い出が詰まった自分自身も、いずれは空っぽになるのだろう。


 その時になったらきっと、何か入るかもしれない。


 心の隙間に寒さを感じたら、何か温かいもので満たすかもしれない。


 それが一体なんであるかは、まだ貞彦にはわからない。


 けれど、今だけは。


 思い出がまだ温かいうちは、幸せに生きていける。


 そう思っていた。


「これが、澄香先輩の望んだ結末か。本当はちょっとキツイけど、それでも、やっぱり言いたいことがあるんだ」


 貞彦は両手でメガホンの形を作る。


 遠くへと響くように。どこかへと届くようにと、精いっぱいの願いを込めて。


「ありがとう――大好きでした――――!」


 音の振動は波として伝わる。


 遠くへ。果てしない先へ。


 永遠には届かない速度で、駆け抜ける。


 どこかで消えていたとしても、それはもうどうでもいい。


 貞彦にはもう、わからないことだから。


 幻のような青春は、一瞬の幸福を生んだ。


 この出来事が、果たして良かったことなのかどうかは、誰にもわからなかった。


 それでも、貞彦は最後に笑った。


 その笑顔はなんだか誰かに似ていた。


 それならきっと、この出来事は良かったことなのだろう。


 そう、信じさせてくれるような気がした。


 貞彦と峰子は、屋上から立ち去る。


 青春の残滓だけが、風に舞っていた。
























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