第19話 家族だから

 貞彦は、ベッド上で寝転んでいた。


 足を揃えて、気難しい表情で、天井を眺めていた。


 考えているのは、白須美澄香についてだった。


 澄香から聞くことができた話の、全てに納得ができるわけではなかった。


 けれど、納得しようがしまいが、それはどちらでも構わない。


 ただ、澄香にとっての事実であるのなら、どうにかするということは、できないように思える。


 過去を変えることなんて、できないのだから。


 幸せにならなければいけないという、呪い。


 幸せなんてなれないという、呪い。


 それでも、幸せにしてくださいと、澄香は言った。


 その姿勢を、素直に捉えていいのだろうか。


 呪いを越えていきたいという、前向きな意思表示と捉えて、いいのだろうか。


 ノックの音が聞こえて、貞彦は視線を扉の方へ向けた。


「どうぞー」


 開いた扉の先で、立っていたのは姫奈だった。


 高身長で大人びた見た目をしているが、熊のぬいぐるみを抱いていた。見た目だけなら成人女性っぽいのに、そこだけは子供らしくて、貞彦は思わず笑いそうになった。


「どうしたんだ?」


「なんだか今日は寂しくて……さだくん、一緒に寝てください」


 普段であれば、突っぱねる場面である。


 一度甘やかすと、際限がなくなる。姫奈はそういう奴だと、兄である貞彦は見抜いていた。


 だからむやみやたらと甘やかさないように、節度を持っているつもりだった。


 けれど、今日の貞彦は違っていた。


「……いいよ」


 貞彦が許可を出すと、姫奈は意外そうに口を開いていた。


「……え? いいんですか? いつもなら『もう一人で眠れる大人なレディーだろ』って、諭す流れだったのに」


「そんな気持ち悪い言い方はしてない。まあ、そんな時もあるさ」


 貞彦はそう言って、ベッドの端にズレた。


 本当に添い寝してもいいんだと、姫奈は気付く。


 嬉々とした表情を浮かべて、飛びつくように布団に潜り込んでいた。


「えへへ。さだくんの布団に入らせてもらうのは久しぶりです」


「そういえば、そうだな」


「これで明日はみんなに、昨日はさだくんと肌を重ねましたって自慢できますね」


「……お前やっぱ出ろ」


「いやです」


 拒否された。


 妹には、隙を見せてはいけないものなんだと、再確認することができた。おかしいな。妹なのに。


 姫奈は貞彦の体にすり寄る。


 右腕を差し出すと、姫奈は嬉しそうに頭を乗せた。腕枕をしてやるのも、随分と久しぶりなことだと、貞彦は思った。


 姫奈は安心したように息を吐いていた。


 理由はわからないが、なんとなくの寂しさを感じていたのは、嘘ではないらしい。


 しばらく沈黙が続く。気まずさはない、ただの自然な静寂。家族だから許せる、なにもない時間。


 そんな家族が、澄香にはいないんだ。


 漠然と考えた時、貞彦にも寂しさが去来していた。


「さだくん。やっぱり様子がおかしいです」


「そんなことないぞ」


「いえ、嘘ですね。さだくんが嘘をつく時は、あごの角度が三度ほど動くんです」


「そうなのか!?」


「嘘です」


 一瞬、コイツなぐったろかと、拳が動きそうになったが、なんとか踏みとどまった。


「でも、嘘をついているのは、本当みたいですね」


「……くっ」


「妹の前だからって、強がらなくてもいいんですよ」


「そういうわけにも、いかないもんなんだよ」


「妹としては、頼もしいですけどね。だけど……さだくんに、お兄ちゃんに無理をさせたいわけじゃないんですよ」


 姫奈は、貞彦の頭に手を添えた。


 ちっちゃくて細かった手も、大分大きくなっていた。


 徐々に大人になりつつある、成長途上の手。


 これからを約束する。そんな未来を感じさせる。温かな手だった。


「なんか、いつもとは逆になってる気がする」


「たまには姫奈お姉ちゃんに甘えてもいいんでちゅよーさだくん」


「調子にのんな」


「ごめんなさい」


 マジな口調だったためか、姫奈はしゅんとして謝った。


「姫奈」


「はい」


「なんていうか、今更なことだけど、聞いてもいいか?」


「はい、なんでも聞いてください。最近とても気持ちよかったことは、さだくんの」


「聞いてないしそれは言うな!」


 貞彦は気を取り直して、口を開く。


「母さんがいなくなった時、姫奈はどんなことを感じたんだ?」


 姫奈の表情が、わずかに曇る。


 まだ子供らしい、哀の感情が前面に出ている、表情。


「……そんなことを聞くなんて、今日のさだくんは本当に変ですね」


「悪い」


「いいですよ。さだくんにとっては、必要なことなんですよね」


 姫奈は、貞彦の胸にそっと顔を寄せた。


 貞彦の胸元を両手で掴み、ぎゅっと握る。


「……姫奈はこの世で、一番不幸な人間だと、思いました」


 声が震えている。抑揚がなく、感情を無理やり抑えているような声色だった。


「お母さんの真意はわからないですし、何があったのかも、姫奈は知りません。だからただ、悲しかったです」


「姫奈……そうだよな」


 貞彦は、突然母親が出て行ってしまったことを、思い出していた。


 本当の所、その理由については知らない。


 何かしらできっと、我慢していたんだろうし、何かにきっと、耐えられなかったのだろう。


 癇癪を起こすこともあったし、情緒的に不安定な部分も多く見られた。


 自分勝手に喚き散らした後に、自分で勝手に後悔して、涙ながらに謝る。そんな母親だった。


 けれど、それでも母親だった。


 どんなに厄介でも、弱くても、何ももたらしてくれなくても、家族なのだ。


「怒鳴り声に怯えることも、泣いている姿に寄り添わなきゃいけないこともなくなりました。でも、やっぱりいなくなってしまったことは、寂しいです」


 涙声も混ざる。寝間着に湿っぽさが移る。


 貞彦は、安心させるように、姫奈を抱きしめた。


「こんなこと聞いて、ごめんな。俺も、同じ気持ちだったんだ」


「さだくんと姫奈の気持ちは、同じなんですね」


「……そうだな」


 言い方に引っ掛かりは覚えたが、状況が状況なので、貞彦は肯定した。


「……姫奈はさだくんに、甘えすぎちゃっていましたか?」


 姫奈はそう言いながら、不安気に顔を上げた。


 思えば、母親がいなくなって以降だった。姫奈が前にも増して、ベタベタしてくるようになったこと。


 赤ちゃん帰りとまではいかないが、どこか子供っぽく甘えるようになった。


 今更になって、母親喪失の不安によるものだったのかもしれないと、思い至った。


 まだ幼い器に、喪失の衝撃はどれほどまでに大きかったことだろう。


 ましてや、もう家族と永久に離れてしまった、澄香先輩は。


「姫奈の背は、随分と伸びたな」


「はい。今年に入ったくらいから、結構伸びましたね」


「その頃くらいか? いきなり『さだくん』って呼びだしたのは」


「えへへ。お兄ちゃんって呼ぶのも、なんだか恥ずかしくって。それに……もうそろそろ姫奈も、大人にならなくちゃって思ったんです」


 悲しみに沈む時期が終わり、少しずつ立ち上がる。


 嫌なことも良いことも経験して、ちょっとずつ大きくなる。


 姫奈はきっと、未来へと、顔を向けているのだ。


「姫奈、偉いぞ」


「えへへ。さだくんに褒められちゃった」


 姫奈は嬉しそうに笑って、貞彦の腕に頭を預けた。


 ほどなくして、寝息を立て始めた。


 なんの憂いも感じさせない、満足気な様子。


 幸せそうな、表情。


 貞彦はずっと、澄香のことを考え続けていた。


 澄香の幸せのありかについて、ずっと。

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