第7話 幸せのありか
幸福とは幻想である。
確かにそうなのかもしれないと、貞彦は片隅で思っていた。
幸福には形がない。
定義はあれど、実体はない。
期待はあれども、確信がない。
常に不安定で、状況や心情によって、簡単にその姿は変わってしまう。
掴もうと思えば思うほど、その前髪は風にあおられて、遠ざかってしまう。
掴めないものであるなら、手に入らないものであるなら。
それは幻となんら変わらないのかもしれない。
なんとなくの幸せを思い浮かべた時、ぼんやりとしたイメージが宿る。
それはあくまで、頭の中で描き出されただけのものだ。
実感を伴い、実体として現れるものではない。
今まで生きていた中で、もう死んでもいいと思えるほどの、幸福に包まれた経験なんて、思い起こせない。
だからこそ、紫兎の言った言葉が、重く突き刺さる。
思わず、認めてしまいそうになるほどに、核心めいていた。
「確かに、紫兎の言う通りかなって思うよ」
「あっさり認めるのかい? 真理が絶対的であることは仕方がないけれど、つまらないな」
「幸福なんて幻想。今までわかりやすい幸福なんて、手に入れたことはない。これからも手に入れられる保証もない。けどさ、幻想だったとしても、幸福が存在しないかどうかは、別問題だ」
貞彦がそう言うと、紫兎は驚きに目を見開いた。
普段の貞彦であれば、すんなりと紫兎の話を受け止めて、受け入れる。
そんな寛容さが、貞彦の良いところであり、物足りなさだと紫兎は感じていた。
けれど、今の彼は違っている。
話を受け止めはしたけれど、すんなりと受け入れてはいない。
そこに、普段の物優し気なだけの貞彦はいない。
一本の芯を持った、一人の男性としての貞彦がいた。
「もしも幸福なんて存在しないんだったら、そもそも俺たちは、幸福について語れないはずだ」
「へえ」
「幸福について望んで、思い浮かべて、泣いて叫ぶほどに焦がれること。そうできることが、幸福が存在するっていう証なんだと思う。手に入れられなくても、淡く儚い幻想だとしても、必ずどこかには存在する」
「……ああ」
「見つけられるか、手に入れられるかはわからない。現実にはなくて、夢とか幻の世界に存在するのかもしれない。けれど、その幸せを探さなければ、きっと見つからない。そう思うんだ」
貞彦は、柄にもなく熱っぽく語った。
紫兎は思わず、その顔に見惚れていた。
それも一瞬のことで、紫兎はふっと目を閉じて、クールさを装うように笑みを浮かべた。
「珍しく、いや超珍しく、かっこいいじゃん貞彦」
「素直に褒めてくれるなんて、お前の方こそ超珍しいな」
「失礼な奴だね。まあ、私の心底からの信条は変わらないけれど、少しだけでも、その幸福とやらを信じてみてもいいかなって思うよ」
紫兎はまっすぐに前を見つめた。
さらさらと流れる川辺。餌をもとめ泳ぐ水鳥の群れ。寒風に舞う枯れ葉も、どこか楽し気に見える。
世界がちょっとだけ、綺麗に見えた。
「ちなみにだけど、さっき言った『幸福について』っていうのは、意訳だから、原題は全然違うんだ」
紫兎はスケッチブックをいじりながら言った。
「そうなのか。ちなみに、原題だとどういう意味なんだ?」
「『
「幸福というよりは、生き方の指導みたいなのが、本来の意味ってことなのか」
「まあそう考えると、彼が『毒舌後ろ向き説教おじさん』って感じる理由もわかるね」
「待て、一個ディスりが増えてる。お前本当にそのショーペンハウアーとやらが好きなのか?」
「共感できるところもあるけれど、特に現代の価値感と噛み合わなかったり、合わないと感じる考えは当然あるよ」
「そりゃそうだろうけど」
「例えばだけど、彼は『性生活上の名誉』について、男女の違いを語るんだ。女性の名誉について引用する」
「ああ」
「『女性の名誉とは、未婚の女性に対しては、まだ男性には誰も身を許してはいまいという世間一般の思惑を言い、既婚の女性に対しては、自分に委ねられた男性にだけ身を許してきたのだろうという世間一般の思惑を言うのである』」
「なんていうか、前時代的な価値観って感じだな」
「さらにだ『男性は(女性に対する)ありとあらゆることの世話を引き受け、おまけに結婚によって生ずる子供の世話までも引き受けて、それでようやく一つのことを女性から与えてもらうという制度が設けられた次第なのだ』だと。バカにしてる」
「ちょっと前の時代だから男尊女卑が普通だったんだろうなって思うけど……今見るとこれはなかなかひどいな……」
「そうでしょ! 浮気をした女性に対しては処罰を加えられるけど、間男に対しての処罰は求めすぎだっていうのが、この時代の価値観なのさ」
「悪いことっていうなら、両方だろ? なんでなんだ?」
「うまく言えないけれど、女性とは一人の男性を裏切らないこと。すなわち純潔を捧げて、なおかつその男性に全てを費やすことが普通であり、それが結婚の条件だと普遍的に考えられていたからだと思うよ」
「結婚することの意味って、理想的なことを言えばお互いのためなのにな。じゃあ女性にとっての結婚とは、貢物として自分を捧げます。だから、その分面倒を見てくれ! っていうものだったのか」
「おそらくね。アダムのあばら骨からイヴだかエヴァだかが生まれたと聖書で語ったからって、それが常識になったことの悲劇だ、きっと」
紫兎は瞳をと口を尖らせていた。
珍しく、ストレートに怒っているようだった。
「もともと人間の体のベースは女性だった説があり、染色体だって女性がXXで男性がXYじゃないか。男性の方が後付けの亜種じゃないのか」
「どうどう。おさえておさえて」
「極端なことを言えば、処女じゃない女性に価値はないと暗に言っているじゃないか。なんだそれ」
「まあまあ。昔の時代の話だろ? 今の時代はその……経験があるかないかなんて、そこまで関係ないって」
「ちなみに、私は経験豊富だ!」
空気に亀裂が入ったように感じた。
時が止まった。
貞彦は壊れたロボットみたいに、口をあんぐりと開けて固まっていた。
気まずい。
なぜか知らないけれど、とても気まずかった。
貞彦のリアクションを見て、紫兎は満足そうに笑った。
「あーっはっはっは。なんだい貞彦、そのリアクションは」
「いや、べつに」
「ちなみに、嘘だよ」
紫兎に言われて、貞彦はなぜかほっとしていた。
「そうか」
「ああ。私は処女だよ」
またしても、空気に亀裂が入った。
さきほどとは別の気まずさに、貞彦は満たされていた。
「ほっとしたかな?」
「……そんなことないです」
貞彦は、絞り出すように答えた。
「くっくっく。あーっはっはっはっは」
貞彦のいかにもなリアクションを見て、紫兎は心底力強く笑った。
川辺にこだまする紫兎の笑い声は、歌声よりも響いていた。
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