第6話 相変わらずな彼女
貞彦は一人、寒空の下で散歩をしていた。
考えても埒が明かず、何か奇跡的なアイデアでも出てこないかと、期待していた。
寒風が吹きすさぶ。
雪が降るほどの寒さには足りない。けれど肌を刺すような感覚を連れてくる。
冷たさが増してくると、なぜか寂しさも増してくる。そう感じる。
人肌が恋しいという表現は、寒さから逃れるためなのかもしれないと、貞彦は考えていた。
「あれ?」
川の流れを眺めていると、見覚えのある人物を発見した。
遠目から見ても、小刻みに震えている。マフラーを口元まで巻いているから、よほど寒いんだろう。
どうやら、スケッチをしているようだった。
寒いんならやめりゃいいのにと思いつつ、貞彦は近づいた。
貞彦は、たまたま持っていたブランケットを、その人物にかぶせた。
「ふっ。温かいじゃないか」
「思ったより動じないな、紫兎は」
「私にこんなことをしてくるのは、貞彦くらいだからね」
紫兎はクールぶるように笑っていた。
突発的に始めたスケッチの趣味は、まだ続けているようだった。
「よっと」
「なんで隣に座るんだい?」
「……嫌なら嫌って言えばいいじゃんか」
「嫌って言ったら?」
「普通に傷つくわ」
「なら嫌だ」
「傷ついた!」
「くっくっく。愉快な気分だから、隣にいることを許そう」
「はたしてこのやりとりは必要だったのか?」
貞彦は疑問をぶつけつつ、マフラーをさらに強く巻き付けた。
チラッとスケッチブックを眺める。
以前よりも線がしっかりと描けており、描写の正確性が増しているように見える。
少なくとも、しっかりと上達しているようだった。
「まさか私のまだ下手くそな絵を見に来たわけじゃないよね。何か用でもあるの?」
紫兎は貞彦の方を向かずに言った。
「いや、ちょっと悩みっていうか」
「へえ。言ってみなよ。貞彦の悩みだったら、私も愉快な気持ちになれそうだし」
「そう言われると言いたくなくなるな」
「言っても言わなくても、貞彦に対する評価は何も変わりはしないから、どっちでもいいかな」
「それはそれで腹立つ!」
とはいえ、貞彦は紫兎に話す心づもりだった。
詳しい内容については、自分たちのことなので言えない。
けれど、悩みの本当に表面的な部分については、意見を仰ぐことは有効だと思えた。
ひねくれているけれど、割かし読書もするし、独自の感性を持っていると、紫兎のことを評価している。
それにおそらく、紫兎は天才なんだろうから。
「なあ紫兎」
「ん」
「幸せって……なんだろうな?」
鉛筆の芯が折れた。
紫兎は目を丸くして貞彦の方を見つめ、心配そうに目を細めた。
紫兎がするにしては、非常に珍しい表情だった。
「いい心療内科を紹介するよ」
「病んでないわ!」
「急に幸せについてとか言いだすなんて、何かあったとしか思えないんだけど」
「いやあ、最近ラッセルの『幸福論』って本に触れてさ、幸せについて本気出して考えてみたくなったというか」
貞彦は、微妙なニュアンスのことを言った。
実際に本を読んだわけではないが、澄香から教えてもらったことは、本の内容に準じているはずだ。
なので、嘘をついているわけじゃないと、貞彦は自分に言い聞かせていた。
紫兎は合点がいったのか、クイズに答えたような顔をしていた。
「なるほどね。あれは前向きな幸福論だね」
「紫兎は読んだことがあるのか?」
「さらっとだけどね。でもラッセルはあんまり好みじゃないかな。言うことが明るすぎる」
「じゃあ、紫兎の好みってどんなのなんだ? ちょっと気になるな」
貞彦が言うと、紫兎はわずかに口元を釣り上げた。
ニヤリとした感じに見えた。
「へえ。貞彦は私のことが気になるんだ」
「あくまで思想の好みについてだからな」
「まあ、からかうのはまたの機会にしようか」
「その機会はずっと来ないで欲しいな!」
「私が共感できたのは、ショーペンハウアーの『幸福について―人生論―』かな。ドイツの哲学者で、ヨーロッパにおけるペシミズムの源流を作った人って感じかな」
「……出たなペシミスト」
「彼のことを独断と偏見で言うならば『毒舌後ろ向きおじさん』だね」
「お前もかなりの毒舌じゃねえか。というか、おもっくそ影響を受けてるんだな」
「おいおい。私のことを『毒舌後ろ向き美少女』だとでも言うつもりかい?」
「けなしてるフリして自画自賛してるじゃねえか!」
貞彦はツッコんだ。
これだけ真っすぐツッコむのも、久しぶりだと思った。
「まあ、あんまり専門的なことを言っても、貞彦にはわからないだろう。だから簡潔に言うね」
「浅学非才なわたくしめのために、ありがとうございますね」
「いやいや、当然のことをするだけだよ」
「皮肉とか謙遜が通用しねえ!」
「『一生の総決算を幸福論的な見方に立って引き出そうとする場合、自分の享楽した喜びによって勘定を立てるべきでなく、のがれた災厄によって勘定を立てるべきである』」
「喜びの数じゃなくて、災厄から逃げることができたことが大事だってことか?」
「『幸福に生きるということはあまり不幸でなく、すなわち我慢のなる程度に生きるという意味に解すべきものであるということから、幸福論の教えが始まるのでなければならない』」
「なるほど。確かに後ろ向きに感じるな」
享楽とか快楽とかを、積極的に求めて、身をやつすことが幸せじゃない。
むしろ、訪れる不幸や災厄から逃れられること。平穏無事に暮らしていけることこそ、幸せなのだと言っているように感じた。
「彼は人生とは苦しみで満ちているといった、ペシミストの立場だからね。人間は幸せのために生きているといった考えに対して、それは人間生来の迷妄にすぎないと言っている」
紫兎はそう言って、相も変わらずニヒルに笑った。
その姿は、どこか世捨て人のような高尚さすら感じた。
「彼の言が正しいとすれば、幸福とは何かなんて簡単に決められるね。幸福とは――幻想だよ」
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