エピローグ 抱きしめているのに

「なんていうか、不思議な出来事だったな」


 相談支援部の部室で、貞彦はぽつりと呟いた。


 ネコの夢の中に突撃したり、瑛理から分離したサヤという存在だったり、おおよそ常識では考えられないような体験をしてきた。


 その中でも、今回の出来事は群を抜いて不思議要素が満載だったように思う。


 物語の中から、飛び出してきた少女。


 にわかには信じがたいけれど、実際に見てきたのだから、否定する要素はなかった。


 貞彦は世の中の不思議について、心を巡らせていた。


「不思議なことがいっぱいなことは、とても楽しくてよろしいじゃないですか」


 文庫本から顔を上げて、澄香は言った。


「それにしても、皆さんと一緒に、キャンプファイヤーに参加しなくて良いのですか?」


「俺はいいんだ。なんていうか、そんな気分になれなくてさ」


 相談支援部室には、貞彦と澄香の二人きりだった。


 文化祭の出し物は無事に終了し、校庭ではキャンプファイヤーが催されている。


 楽し気な音楽が響き、生徒たちが各々のリズムでダンスをしている。


 素直はどうやら、カナミと踊っているようだった。


 太田と大見、光樹とネコなど、カップルたちは公然とイチャイチャしている。


 今この瞬間を、少しでも思い出として刻まんとばかりに、一生懸命になっている。


 貞彦は、その喧噪を羨ましく思う。


 けれど、同時にこのままで良いのだとも思っていた。


 楽しみの輪から逃れ、世界から取り残されたような寂寥感。


 でも、ここには白須美澄香がいる。


 賑わいから遠く離れても、澄香と過ごす穏やかな時間は、何物にも代えがたいと考えていた。


 そう思えるのはきっと。


 この時間がもうすぐ終わってしまうと、知っているからなのかもしれない。


「ちょうど、一年ぐらいですか」


「何がだ?」


 澄香の呟きに、貞彦は反応した。


「貞彦さんには、心当たりはないのですか?」


 穏やかな口調。いつも通りの微笑み。


 でも、どこかふてくされたようなニュアンスを、わずかに感じる。


 何かあっただろうかと必死に記憶を探ると、一つだけ思い当たることを見つけた。


「相談支援部が出来て、一周年ってことだろ」


「ええ。その通りです。本当に、色々なことがありましたね」


 澄香からの肯定が得られて、貞彦はほっと一息ついた。


 澄香は感慨深げに、目を細めている。


「幼馴染を別れさせてくれとか」


「後輩を育てる方針で、どちらの方が正しいのかと聞かれたりもありましたね」


「あとさ、澄香先輩が敵になるって言った時は、どうなることかと思ったよ」


「ふふ。私は、貞彦さんたちであれば乗り越えられると信じていましたよ」


 貞彦と澄香は、しばしの間、思い出を語り合った。


 夢の中をさまよった出来事。


 すれ違いにあった中での、渦巻いた感情。


 とても穏やかで、尊い一時。


 遠くから聞こえる笑い声。祭りのざわめき。燃え盛る炎。歓喜を連れてくる音楽。


 この瞬間が、いつまでも続けばいい。


 そう願わずにはいられない。


 そう願わずにはいられないのは。


 もう終わってしまうからだ。


「貞彦さん。キャンプファイヤーの炎も、弱々しくなってきましたね」


 澄香は窓から校庭を眺めていた。


 切れ長まつげから覗く瞳。


 憂いを帯びているように感じるのは、気のせいなんかじゃない。


 貞彦は、そう思いたかった。


「もうすぐ、文化祭も終わりだな」


「そうですね……ねえ、貞彦さん」


 澄香は貞彦を呼ぶ。


 視線が対で重なる。


「去年の貞彦さんは、こう言ってはなんですが、とても頑なで刺々しい部分が多くあったように思います」


「……できれば忘れて欲しいんだけど」


「『誰かを信じて傷つくよりも、一人で傷ついた方がマシだ』でしたか。なかなかに尖っていましたね」


「一刻も早く忘れて欲しいんだけど!」


 貞彦は羞恥で赤くなった。


 澄香はクスクスと笑う。


 子供の成長を見守る、母親のような眼差し。


「貞彦さんにはたくさん、友達ができましたね」


「まあ、そうかも」


「尊敬してくれる後輩も増え、目上の人と話をする機会も得られましたね」


「そこらへんはまだ、自信がないけどな」


「自信をもって良いのです。色々な助けがあったとはいえ、それは貞彦さんが自分で得たものなのですから」


 澄香は勲章でも与えるかのように言った。


 どれだけ成長できたかなんて、自分自身ではわからない。


 けれど、なんらかを得られたような感覚は持ち合わせていた。


 何より、他でもない澄香に認められたことが、嬉しくて仕方がなかった。


 澄香は窓の外を眺めた。


 視線は校庭ではなく、空の方を向いていた。


 頭上に輝く月は、半分に欠けている。


 眩しさに目を眩ませたような仕草で、澄香は目を伏せる。


 誰にも聞こえないようなトーンで。


 でも、誰かには聞いて欲しそうな思惑も感じる声で、澄香は呟く。


「これでもう、私がいなくても――大丈夫ですね」


 ノイズ。


 澄香が言ったことは、貞彦にとっては驚くべき言葉ではない。


 三年生である澄香が、相談支援部を引退する。


 その日が来ることは、ずっと前から分かっていた。


 だから、澄香が引退を示唆したとしても、驚かないようにしよう。そう心に決めていた。


 にも関わらず、貞彦は動揺していた。


 澄香の言葉に、動揺を誘われたわけではない。


 澄香が言葉を紡いだ時。


 一瞬のことだが、ノイズが走ったのだ。


 ほんの一瞬。見間違いだと片づけてしまえそうなほど、短すぎる刹那。


 澄香の姿が見えなかった。


 まばたきをしたからだと、結論付けることは可能だ。


 理屈ではわかっている。


 けれど、シミのように奥深くまで入り込んだ不安は、拭い去れない。


「貞彦さん?」


 不思議そうに首を傾げ、澄香は貞彦を呼んだ。


 その声に誘われたように、気が付けば体が動いていた。


 澄香の首元を包むように、両手を回す。


 愛情からではなく、寂寥でもない。


 言いようもない不安を感じて、貞彦は澄香を抱きしめていた。


 澄香は驚きに身をすくめたが、それも一瞬のことだった。


 我が子を受け入れるように、澄香は貞彦に抱かれたままになっていた。


「……貞彦さんは、あまえんぼさんなんですね」


 澄香の体は、わずかに震えている。


 それでも、気丈な振る舞いを続けていた。


「ごめん。なんだか、急に不安になって。澄香先輩が……」


「はい。私が、どうかしましたか?」


「澄香先輩が、どこかに行ってしまうような気がして」


 澄香はふっと目を閉じた。


 その感情が、貞彦にはわからなかった。


 ただ、芯から沸き上がる不安だけに、支配されている。


「大丈夫ですよ。貞彦さん。あなたはもう、以前よりも、もっと立派になりましたから」


「澄香先輩」


「素直さんとなら、大丈夫です。誰よりも近くで見続けていた私が言うんですから。大丈夫です」


 澄香は貞彦の頭を撫でる。


 優しく傷つけないためでなく、元気づけて手放すために。


 貞彦の心は、少しだけ和らぐ。


 それでも、決して消えてはくれない。


 二人は無言で、そのままで居続けていた。


 音楽が止まり、キャンプファイヤーは燃え尽きる。


 月が照らす。半分に欠けた月。


 夜が訪れる。


 本格的な夜に、明かりは全て消えていく。


 暗がりで揺れる光が、どんどん遠ざかっていく錯覚を覚える。


 消えてしまいそうな夜。


 砂のように溶けていく時。


 貞彦の寂しさは、何よりも無力でしかない。


 何かを繋ぎ留めておくには、ただその感情は儚い。


 澄香は、とびっきりの笑顔を見せた。


「今まで、本当に楽しかったですよ。ありがとうございました。貞彦さん」






 こうして、文化祭の終了をもって、白須美澄香は相談支援部を引退した。

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