第21話 この世は不思議で満ちている
「世界は存在しないけど、世界以外の全ての物は存在する? それって、どういう意味なんだ?」
呆けている秋明に代わり、貞彦が質問した。
唐突に出てきた言葉は壮大すぎて、貞彦はうまく飲み込めなかった。
「私が言っている世界というものを定義するならば、文字通りの世界です。この世の全てを包み込んでいるものが世界。なんとなくイメージされるものが、あると思います」
「本当に、なんとなくだけどさ」
「しかし、そのなんとなく想像している世界というものは――本当に世界そのものなんでしょうか?」
澄香は微笑みを振りまいた。
その微笑みは、まるで一筋の矢のごとく、鋭利なものに見えていた。
「あまり長くなってしまうと、さらに混乱を招いてしまうと思うので、簡潔に述べましょう。全てを包み込んでいるものの存在、すなわち世界を認めるのであれば、その世界はどこにあるのか」
「そもそも世界がその全てなんじゃないのか?」
「世界というものを想像するのであれば、その全貌を見るために、なんらかの場所から観測することが必要です。そうなると、世界の外側にはまた何かが存在します。世界の外側に世界が」
「そんなことを言い出したら、それは無限に繰り返されるんじゃないのか?」
澄香は嬉しそうに笑った。
「ええ、その通りです。全てを包み込んでいるのに、その外側にも世界があるのなら、無限に繰り返されます。よって、そのような全体を包む世界なんてありえないというのが、マルクス・ガブリエルの主張なのです」
「わかったとは言えないけど、少しはわかった気がする。でも、澄香先輩が本当に言いたいことって、その先なんだろ?」
貞彦は、澄香に続きを促した。
澄香と接してきた経験上、これからの話の流れを、貞彦は理解していた。
澄香が本当に言いたい大事なことは、きっとこの前振りの先にあるのだということを。
「そうですね。もったいぶるつもりはないので、私に言えること、言いたいことを話しましょう。以前私は、貞彦さんに語りました。論理が世界を満たしていると。言葉の限界が、あなたの世界の限界なのだと」
「ああ。そうだったな」
「全体を包み込む世界はない。それでは、何があるのか。私には私の、ちっちゃな世界がある。貞彦さんにも、秋明さんにも。たとえば、私にとっての安梨さんは、見ていて楽しい不思議な少女という意味合いがあります」
「ちっちゃな世界に、意味合い、か」
「秋明さんにとっての安梨さんは、大切な物語の主役としての意味合いがあり、物語にとっての安梨さんの意味合いとは、悲劇のヒロインであり、貞彦さんや素直さんにとっての安梨さんは、友達という意味合いがあるでしょう」
「見る人によって、安梨にくっついている意味が変わっていると言いたいのか」
「それが、世界以外の物の正体です。魔女は現実という意味では存在しません。しかし、ファンタジーの中という意味の場には存在します。この世に満ちているものは、無数の意味付けの世界なのだと、主張されています」
一つのものに対して、色々な視点から見たものには、視点ごとの意味が付随されている。
現実という意味の場にはいなくても、ファンタジーという意味の場には存在する。
「そして、安梨さんが意味の場という場所であれば存在するということは、簡単に証明できます」
「随分と大言壮語を言うんだな」
「『安梨さんが存在しない』と言うことは簡単です。けれど、この安梨さんというのは、一体どこから来たのですか?」
「……そう言われると、よくわからない」
「『安梨さんが存在しない』と言うためには、安梨さんという存在を知っていることが前提にあります。知っているというよりも、概念的にあり得るものだと知っていなければ、安梨さんという人物は出てこないでしょう」
「存在しないと言っておきながら、その存在しないものを知っていなければ、そもそも存在しないという言葉は言えないってことか?」
「ええ、そうです。存在しないことを証明するのであれば、存在しないと言えばいいわけではありません。そう言った時点で、なんらかを知っているのですから。本当に存在しないものは、そもそも語ることすらできないのです」
そこまで話を聞いたことで、澄香が以前言っていたこととつながりがあるように感じた。
言葉の限界が世界の限界で、語れないものについては沈黙しなければならない。
そして、限界を迎えた世界なんて存在しなくて、あるのはそれぞれに意味がつけられている、ちっちゃな世界だけ。
知っている言葉や概念が多いほど、世界は広く、大きくなっていくのだと。
ここで、貞彦は疑問を抱いていた。
澄香は安梨が存在することについてを、説明していた。
しかし、安梨が現実という意味の場に存在していることの、説明にはなっていないように思う。
貞彦がぼんやりと思っていると、澄香は貞彦の思考を読み取ったかのように、続きを話し始めた。
「私が言いたいことは、端的に言うとこれだけです。理由はわからなくても、この世ではありとあらゆる不思議なことが、起こり得るのです」
澄香はそう言って、今日一番の笑顔を見せた。
「そして、ありとあらゆる不思議なことが起こるかもしれないなんて――それはとっても、楽しいじゃないですか」
安梨が現実に存在する理由は、よくわからないのかもしれない。
それでも、澄香は現実を肯定している。いつものように。
小難しい理論を携えていたが、言いたいことはたった一つ。シンプルなことだったようだ。
この世では、なんだって起こり得る。
そして、澄香の笑顔が物語っている。
なんでも起こり得ることは、きっと希望になり得る。
希望を持って生きることは楽しい。
そう語っているように、貞彦は感じていた。
「見つけましたわ!」
「ああああさんを連れてきたよ!」
空気を切り裂くような、鋭い声が飛んできた。
高貴さの滲む凛と通る声。それでいて、お転婆さに弾むトーン。
得意気な表情で、安梨は仁王立ちをしていた。
その後ろでは、素直がグッと親指を立てていた。
「……君か」
秋明はそう言って、顔を逸らした。
まだ今の状況を、受け入れられないのかもしれない。
秋明の様子なんて目もくれず、安梨はずいずいと近づいた。
おでこが触れそうなほどの近い距離。
安梨はさらに視点を絞るように、目を細める。
「あの時は何も感じませんでしたけれど、あなたを見ていると、なんだか安心しますわ」
「それはきっと、気のせいだ」
「いいえ。そんなことはありませんわ。前よりも、なんだか頭がスッキリしているようですの。欠けていたパズルが戻ってきたとか、そんな感覚ですの」
貞彦は、ふと思い出した。
秋明のノートから、物語が消えていた事態を。
確証はないが、時間が経つにつれて、ノートから安梨に、物語が少しずつ流れ込んでいったのではないかと思う。
今の安梨はきっと、より鮮明に記憶を取り戻しているように感じる。
秋明は気まずいのか、安梨から顔を逸らしている。
安梨はおもむろに秋明の前髪を上げた。
観念したように、秋明の瞳が安梨を捉える。
安梨は、子供のような笑みを浮かべた。
「やっぱり。いつもわたくしのことを見守ってくれていたのは、あなたでしたのね」
「見守っていたなんて、そんないいものじゃない。僕はただ、見ていただけだ」
「それだけでいいんですの。辛くて感情を吐き出してしまいたい時、悲しみに暮れて泣きそうな時、誰かが側にいてくれるように感じていました。それだけで、心強かったんですの」
安梨は目を閉じていた。
安梨だけにしかわからない、思い出が巡っているように思えた。
秋明はなぜか、辛そうな表情をしていた。
他の誰でもない、自分で作った物語の中に、安梨はいる。
安梨の運命について、本人以上に知っている。
これから、彼女に訪れる苦難を思うと、胸を痛めずにはいられないのだろう。
「君は辛くないのか? 自由になれず、好きなことができず、運命めいたものに絡み取られている自分の人生についてさ」
秋明は安梨に聞いた。
罪悪感に苛まれたような声色だった。
劣等感や悲壮感をぶちまけて、悲劇を綴っていた様子の秋明。
ある意味では安梨のことを、自分自身のエゴによる被害者のように感じているのかもしれない。
しかし、秋明の反応とは裏腹に、当の安梨はきょとんとしていた。
「辛いこともあったような気がします。けど、ここに来てみてわかったことがありますの。生きていたら、楽しいことはいっぱいあるということです」
「楽しいこと?」
「ええ。ぼーりんぐというものを体験したり、ウェイトレスになってみたり、初めて友達ができたり。生きていると、楽しいことっていっぱいあるんですのね」
「……そっか。それは、良かったね」
秋明は安堵した。
自分の子供同前の安梨が、何かしらの楽しみを見出していた。
ただ、悲劇の象徴のために生み出された彼女。
安梨がこの世界で、どのようなことをしていたのか、秋明はほとんど知らない。
ほんの少しでも、楽しかったことがあったのであれば、とても良かった。
秋明の口元は、知らないうちに緩んでいた。
安梨はお上品な仕草で、両手を組んで立ちあがった。
右手で髪をかき上げる。
見えているのは、ただのお転婆な少女ではない。
信念を持って生きる、一人のお姫様のような立ち振る舞い。
丁寧にお辞儀をして、安梨は口を開く。
「いつも見守ってくださり、感謝していますわ。本当に、ありがとうございました」
翌日に行われた演劇の内容は、当初のオチとは全く違ったものになっていた。
悲劇の少女が、現代を模した異世界に転生して、幸せに暮らしました。
なんじゃそりゃというツッコミの声も飛び交っていた。物語の完成度としては、首をかしげるものとなっているかもしれない。
それでも、貞彦はとても満足していた。
アホらしいような展開であったけれど、この劇を見ていた安梨が、とても満足そうにしていたからだった。
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